泉岳寺
都営地下鉄泉岳寺*1駅から西へ約200m、JR高輪ゲートウェイ駅から西へ約450mのところにある。江戸時代には曹洞宗江戸三カ寺*2の一つに数えられた名刹。もともとは、1612(慶長17)年徳川家康が今川義元の菩提を弔うため、桜田門外に創建し、今川義元の孫、門庵宗関(もんあんそうかん)を迎え開山とした。1641(寛永18)年の大火で焼失して現在地へ移った。以後、寺域約6万6000m2を有し、七堂伽藍を完備していたという。播州赤穂城主浅野氏*3の菩提所。浅野長矩(ながのり)*4および赤穂浪士*5の墓があることで全国的に名高い。現在の山門は天保年間(1830~43)の再建といわれる重層八脚門。その横に連判状を手にした大石内蔵助*6の銅像が立つ。境内正面に本堂、その左手に講堂(義士木像館*7)・血染めの梅、血染めの石*8・首洗い井戸*9などがあり、その前には赤穂義士記念館*10が建つ。さらに奥へ進むと浅野家の裏門を移築した義士墓入口の門の先に浅野長矩、赤穂義士の墓所がある。
4月1~7日と12月14日に義士祭が、2月4日に義士忌が催される。
4月1~7日と12月14日に義士祭が、2月4日に義士忌が催される。

みどころ
泉岳寺では、まず、浅野長矩及び赤穂義士の墓に参拝したい。境内の左手奥にあり、石段を登って義士墓入口の門をくぐるとそこに墓が立ち並ぶ。浅野長矩の墓は高さ2m余り、笠石のない1本石の墓石が立つのみで、大名の墓としては質素。隣に立つのが長矩の夫人である瑶泉院の墓でこれには大名の奥方にふさわしく、笠石が載せられている。四十七士の墓は玉石垣に囲まれており、大石良雄、主税父子の墓を軸に、切腹前に預けられていた細川・久松・毛利・水野の4家ごとに、17人、10人、10人、9人と四角に並び、討入り報告のため諸国を回り、天寿を全うした寺坂吉右衛門の「逐道退身信士」を除き、墓石に刻まれた戒名の最初の1字はすべて「刃」となっている。四十七士の墓なのに墓石が48基あるが、48番目の墓は「忠臣蔵」の物語に登場する伝説の人物で、敵をあざむくため放蕩を続ける大石内蔵助を叱責したという村上喜剣の墓と伝えられ、「刃道喜剣信士」と刻まれている。ただし、寺伝では討入り前に切腹した萱野(かやの)三平の供養墓ともいわれている。
この墓所に参拝した後は赤穂義士記念館や木像館に立ち寄り、赤穂浪士たちの実像や物語について考えてみるのも興味深い。
この墓所に参拝した後は赤穂義士記念館や木像館に立ち寄り、赤穂浪士たちの実像や物語について考えてみるのも興味深い。

補足情報
*1 泉岳寺:寺号は徳川が源氏一族であることに因み、「源の泉、海岳に溢るる」の意から付けられた。
*2 曹洞宗江戸三カ寺:芝(港区)の青松寺、橋場(台東区、現板橋区)の総泉寺、高輪の泉岳寺。江戸三カ寺は曹洞宗を代表して幕府との交渉にあたる触頭寺院といわれ、江戸での宗務を統括していた。なお、曹洞宗では江戸期を通じて大本山永平寺の住職を下野大中寺(栃木県栃木市)、下総総寧寺(千葉県市川市)、武蔵龍穏寺(埼玉県越生町)の3ヵ寺から交代で選ぶ制度があり、この3ヵ寺は「関三刹」と称された。
*3 浅野氏:浅野氏と泉岳寺の関係は、桜田門外から現在地に移転した際に、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名が力を尽くしたと言われ、そのことから、この5大名は当時の檀越(檀那)となった。浅野家の菩提寺でもある。
*4 浅野長矩:1667(寛文7)~1701(元禄14)年 播磨赤穂藩主。内匠頭。1701(元禄14)年江戸城にて吉良上野介の侮辱に怒り刀傷事件を起こし切腹。浅野家の菩提寺だった泉岳寺に葬られた。
*5 赤穂浪士:1701(元禄14)年3月14日に播磨赤穂藩主浅野長矩が江戸城御殿内の松の廊下で高家吉良上義央に刃傷沙汰に及び、浅野は切腹を命じられ、赤穂藩は改易となった。その処断に不服だった赤穂浪士47名が江戸などで潜伏したのち、1702(元禄5)年12月14日深更、本所(東京都墨田区)の吉良邸に討ち入り。吉良を殺害した。その首を浪士たちは泉岳寺の長矩の墓前に供え、報告したのち、幕府に出頭した。翌年2月4日に寺坂吉右衛門を除く46名が切腹を命じられ、泉岳寺に墓所が設けられた。のちに寺坂も葬られた。
この討ち入りが「義挙」として脚色されて物語に仕立てられ、1748(寛延元)年に「仮名手本忠臣蔵」として大坂竹本座で初めて上演された。これが評判を呼び、ついで江戸においても上演され、幕府への不満を孕む庶民たちの同情もあって人気を博した。その後、歌舞伎の定番の演目となって、現代まで演じられているとともに、映画、テレビ、小説なども含め、数多くのサイドストーリーが作られ続けられている。
赤穂浪士47名(四十七士)は大石内蔵助、大石主税、片岡源五右衛門、原惣右衛門、堀部弥兵衛、近松勘六、吉田忠左衛門、吉田沢右衛門、間瀬久太夫、間瀬孫九郎、堀部安兵衛、磯貝十郎左衛門、間喜兵衛、間十次郎、間新六、中村勘助、菅谷半之丞、千馬三郎兵衛、村松喜兵衛、村松三太夫、岡島八十右衛門、大高源五、潮田又之丞、富森助右衛門、赤埴源蔵、不破数右衛門、岡野金右衛門、小野寺十内、小野寺幸右衛門、奥田孫太夫、奥田貞右衛門、大石瀬左衛門、木村岡右衛門、矢田五郎右衛門、早水藤左衛門、倉橋傅介、矢頭右衛門七、勝田新左衛門、前原伊助、貝賀弥左衛門、武林唯七、杉野十平次、神崎與五郎、茅野和助、横川勘平、三村次郎左衛門、寺坂吉右衛門。
*6 大石内蔵助:1659(万治2)~1703(元禄16) 大石良雄。内蔵助は通称。赤穂藩の家老。1500石。赤穂浪士の中心的指導者。
*7 義士木像館:講堂の2階。幕末の彫刻家、鷲屋石欒やその弟子たちによる赤穂浪士四十七士の木像が全員分展示されている。入館有料(義士記念館と共通)。
*8 血染めの梅、血染めの石:浅野内匠頭が切腹したときに血がかかったとされる梅の木と石だという。陸奥一関藩(藩主田村右京大夫)の上屋敷から移されたものとされる。
*9 首洗い井戸:討ち入り後、浅野長矩の墓前に吉良上野介義央の首を供えるため、その首を洗った井戸とされる。
*10 赤穂義士記念館:鷲屋石欒の大石父子像、四十七士遺像(46幅)、討ち入りの際の口上書、陣太鼓などを展示。入館有料(木像館と共通)。
*2 曹洞宗江戸三カ寺:芝(港区)の青松寺、橋場(台東区、現板橋区)の総泉寺、高輪の泉岳寺。江戸三カ寺は曹洞宗を代表して幕府との交渉にあたる触頭寺院といわれ、江戸での宗務を統括していた。なお、曹洞宗では江戸期を通じて大本山永平寺の住職を下野大中寺(栃木県栃木市)、下総総寧寺(千葉県市川市)、武蔵龍穏寺(埼玉県越生町)の3ヵ寺から交代で選ぶ制度があり、この3ヵ寺は「関三刹」と称された。
*3 浅野氏:浅野氏と泉岳寺の関係は、桜田門外から現在地に移転した際に、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名が力を尽くしたと言われ、そのことから、この5大名は当時の檀越(檀那)となった。浅野家の菩提寺でもある。
*4 浅野長矩:1667(寛文7)~1701(元禄14)年 播磨赤穂藩主。内匠頭。1701(元禄14)年江戸城にて吉良上野介の侮辱に怒り刀傷事件を起こし切腹。浅野家の菩提寺だった泉岳寺に葬られた。
*5 赤穂浪士:1701(元禄14)年3月14日に播磨赤穂藩主浅野長矩が江戸城御殿内の松の廊下で高家吉良上義央に刃傷沙汰に及び、浅野は切腹を命じられ、赤穂藩は改易となった。その処断に不服だった赤穂浪士47名が江戸などで潜伏したのち、1702(元禄5)年12月14日深更、本所(東京都墨田区)の吉良邸に討ち入り。吉良を殺害した。その首を浪士たちは泉岳寺の長矩の墓前に供え、報告したのち、幕府に出頭した。翌年2月4日に寺坂吉右衛門を除く46名が切腹を命じられ、泉岳寺に墓所が設けられた。のちに寺坂も葬られた。
この討ち入りが「義挙」として脚色されて物語に仕立てられ、1748(寛延元)年に「仮名手本忠臣蔵」として大坂竹本座で初めて上演された。これが評判を呼び、ついで江戸においても上演され、幕府への不満を孕む庶民たちの同情もあって人気を博した。その後、歌舞伎の定番の演目となって、現代まで演じられているとともに、映画、テレビ、小説なども含め、数多くのサイドストーリーが作られ続けられている。
赤穂浪士47名(四十七士)は大石内蔵助、大石主税、片岡源五右衛門、原惣右衛門、堀部弥兵衛、近松勘六、吉田忠左衛門、吉田沢右衛門、間瀬久太夫、間瀬孫九郎、堀部安兵衛、磯貝十郎左衛門、間喜兵衛、間十次郎、間新六、中村勘助、菅谷半之丞、千馬三郎兵衛、村松喜兵衛、村松三太夫、岡島八十右衛門、大高源五、潮田又之丞、富森助右衛門、赤埴源蔵、不破数右衛門、岡野金右衛門、小野寺十内、小野寺幸右衛門、奥田孫太夫、奥田貞右衛門、大石瀬左衛門、木村岡右衛門、矢田五郎右衛門、早水藤左衛門、倉橋傅介、矢頭右衛門七、勝田新左衛門、前原伊助、貝賀弥左衛門、武林唯七、杉野十平次、神崎與五郎、茅野和助、横川勘平、三村次郎左衛門、寺坂吉右衛門。
*6 大石内蔵助:1659(万治2)~1703(元禄16) 大石良雄。内蔵助は通称。赤穂藩の家老。1500石。赤穂浪士の中心的指導者。
*7 義士木像館:講堂の2階。幕末の彫刻家、鷲屋石欒やその弟子たちによる赤穂浪士四十七士の木像が全員分展示されている。入館有料(義士記念館と共通)。
*8 血染めの梅、血染めの石:浅野内匠頭が切腹したときに血がかかったとされる梅の木と石だという。陸奥一関藩(藩主田村右京大夫)の上屋敷から移されたものとされる。
*9 首洗い井戸:討ち入り後、浅野長矩の墓前に吉良上野介義央の首を供えるため、その首を洗った井戸とされる。
*10 赤穂義士記念館:鷲屋石欒の大石父子像、四十七士遺像(46幅)、討ち入りの際の口上書、陣太鼓などを展示。入館有料(木像館と共通)。
関連リンク | 曹洞宗江戸三ヶ寺 萬松山泉岳寺(WEBサイト) |
---|---|
参考文献 |
曹洞宗江戸三ヶ寺 萬松山泉岳寺(WEBサイト) 「港区史 第3巻 通史編 近世 下 名所化する泉岳寺」デジタル版(WEBサイト) 「港区史 第2巻 通史編 近世 上 曹洞宗の関三刹と江戸三箇寺」デジタル版(WEBサイト) 赤穂浪士記念館パンフレット 泉岳寺境内ガイド板(縁起など) |
2025年06月現在
※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。