鎌原観音堂かんばらかんのんどう

1783(天明3)年の浅間山大噴火の時に、鎌原村(現在の嬬恋村の一部地域)を埋め尽くした浅間山噴火土石なだれから残った唯一の建物。大噴火の土石なだれは、時速100km以上のスピードで火口から12km離れた鎌原村を襲い、村は5~6mの深さに埋もれた。
 災害前の観音堂は村から石段で50段上がった場所にあった。その階段を駆け上がって助かった者は93人のみで、残る村民477人の命が奪われたという。熱泥流がこの階段の下部を埋めてしまい、現在では上部15段だけが残る。こうした悲劇のあと、生き残った93人は身分財産に関係なく一族の契りを結び平等にして、埋まった村を少しずつ再建したという。
 1979(昭和54)年7月、多方面の専門学者と地元の人たちの協力のもと、パワーショベルなどによる鎌原村の発掘調査*が行われ、様々な遺品や遺骨が発見された。
 現在は観音堂と石段15段、および以前(1974(昭和49)年)の発掘調査による地中の石段数段を残した穴が保存されており、覗き見ることができる。
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みどころ

現在の観音堂とその石段だけを見ただけでは感動を呼ぶものではない。しかし二百数十年前の浅間山噴火の大災害の跡が、きちんと調査発掘してでてきている。その事実をわずかではあるが目で確認でき、調査結果と合わせてより深い感動を呼ぶ遺跡である。
 観音堂の隣の嬬恋郷土資料館で天明の大噴火と鎌原観音堂の悲劇を学んでから観音堂を見ることをお勧めする。さらに参考資料の「嬬恋・日本のポンペイ」を読むと、発掘時の発見の事実を知ることができ、また小説「浅間」(立松和平著 新潮社 2003(平成15)年9月)を読むと当時の様子が描写されており興味深い。(林 清)
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補足情報

*発掘調査:鎌原観音堂の発掘調査は、1979(昭和54)年8月6日から開始され、8月9日には石段の上から50段目まで発掘が進み、そこで折り重なる2つの遺骨が発見された。その後の鑑定で2人の女性、40歳前後の女性が50歳を超え腰の曲がったおばあさんを背負っていたと推定された。浅間の大爆発に追われ、おばあさんに頭巾をかぶせて背に負い、観音堂を目指して避難する途中で熱泥流に飲まれたものと思われる。あと30数段で助かっていたことになる。
関連リンク 浅間山北麓ジオパーク(浅間山ジオパーク推進協議会)(WEBサイト)
参考文献 浅間山北麓ジオパーク(浅間山ジオパーク推進協議会)(WEBサイト)
嬬恋村の観光(嬬恋村)(WEBサイト)
パンフレット「鎌原観音堂」(鎌原観音堂奉仕会・鎌原地区活性化協議会)
『嬬恋・日本のポンペイ』浅間山麓埋没村落総合調査会・東京新聞編集局特別放送部、1980年5月

2020年04月現在

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