古河堤灯竿もみまつり
毎年12月の第一土曜日、JR宇都宮線古河駅前に高さ約10mの矢来を組んだ会場を設け、市内の自治会などのグループがそれぞれ20m近い竹竿の先に提灯をつけ集まり、激しく揉み合い相手の提灯の火を消し合う祭り。
この祭りの起源は、江戸時代は古河藩領であった野木神社(現在は栃木県野木町)*の神官が、神鉾を奉じ11月27日から神領である八郷の七つの末社(現在は栃木県小山市)を1泊づつめぐる「七郷めぐり」にあるといわれる。「七郷めぐり」の際に各郷の若者たちが篠竹に提灯をかざして供奉したが、郷境で双方の若者たちが行列の進行をめぐって激しく揉み合い、さらには12月3日未明に野木神社に帰社(おかえり)するのを、提灯を持った近郷の氏子たちが出迎えるために集まり、寒さをしのぐのに身体を揉み合ったのが始まりだといわれている。この「七郷めぐり」は第二次世界大戦直後まで続けられ、帰社の際は、神社境内はもちろんのこと、野木、古河を通る日光街道までにも多くの氏子が参集して賑わったという。明治初期の廃藩置県で古河市と野木町が栃木県と茨城県とに分離されたが、「七郷めぐり」の廃止後も、古河市の提灯竿もみまつりとして継続発展した。なお、野木町でも規模は縮小されているものの、12月3日には同様の提灯竿もみまつりが実施されている。
この祭りの起源は、江戸時代は古河藩領であった野木神社(現在は栃木県野木町)*の神官が、神鉾を奉じ11月27日から神領である八郷の七つの末社(現在は栃木県小山市)を1泊づつめぐる「七郷めぐり」にあるといわれる。「七郷めぐり」の際に各郷の若者たちが篠竹に提灯をかざして供奉したが、郷境で双方の若者たちが行列の進行をめぐって激しく揉み合い、さらには12月3日未明に野木神社に帰社(おかえり)するのを、提灯を持った近郷の氏子たちが出迎えるために集まり、寒さをしのぐのに身体を揉み合ったのが始まりだといわれている。この「七郷めぐり」は第二次世界大戦直後まで続けられ、帰社の際は、神社境内はもちろんのこと、野木、古河を通る日光街道までにも多くの氏子が参集して賑わったという。明治初期の廃藩置県で古河市と野木町が栃木県と茨城県とに分離されたが、「七郷めぐり」の廃止後も、古河市の提灯竿もみまつりとして継続発展した。なお、野木町でも規模は縮小されているものの、12月3日には同様の提灯竿もみまつりが実施されている。
みどころ
大人部門の「競争もみ」は竹竿を激しく打ち合い揉み合いをし、竹のぶつかり合う音、歓声、掛け声が入り交り、最高潮を迎える。
グループごとに竹の切り出し、加工を行い、ロウソク、提灯にも工夫を施し、競い合う。
「こども部門」や「自由もみ」なども祭りを盛り上げる。こどもたちも大人顔まけで、一生懸命竹竿をぶつけ合う姿は微笑ましい。(志賀 典人)
グループごとに竹の切り出し、加工を行い、ロウソク、提灯にも工夫を施し、競い合う。
「こども部門」や「自由もみ」なども祭りを盛り上げる。こどもたちも大人顔まけで、一生懸命竹竿をぶつけ合う姿は微笑ましい。(志賀 典人)
補足情報
*野木神社:創建は不明。仁徳天皇の時代、下野に応神天皇の皇子の霊が勧請され、東征した坂上田村麻呂が現在地に移したともいわれるが、延喜式には記載がない。しかし、吾妻鏡には、1183(寿永2)年、「野木宮合戦」として記載があり、この地にすでに神社があったことは確実とされている。さらにこの合戦により源頼朝方の小山朝政が勝利したことにより、源頼朝の関東での主導権を確実にした戦いであったため、野木神社は頼朝からの庇護をうけ神領が寄進された。その後もこの地代々の領主から崇敬を集め、江戸時代には古河藩の領内となり、藩の鎮守・祈願所として歴代藩主から崇敬され、一般には「神明様」として親しまれた。なお、「野木宮合戦」は、吾妻鏡には「治承5年閏2月23日」と記載されている。ただ、前後の記述から、寿永2年という説を取ることが多いが、1881(治承5)年説も否定できない。
関連リンク | 古河市(WEBサイト) |
---|---|
関連図書 | デジタルコレクション『吾妻鏡第2巻』国立国会図書館 |
参考文献 |
古河市(WEBサイト) こがナビ(古河市観光協会(WEBサイト) 野木町(WEBサイト) とちぎ旅ネット(公益社団法人栃木県観光物産協会)(WEBサイト) のぎのんと学ぶ野木町 のあゆみ(WEBサイト) |
2020年12月現在
※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。