うねめまつりうねめまつり

毎年8月第1木・金・土の3日間開催される。初日は、市内片平町のうねめ神社で開催される「采女供養祭」や市内西部プラザでは「ちびっこうねめまつり」が実施される。2日目・3日目は郡山駅前で「ミスうねめパレード」や学校や市民団体による「パフォーマンスステージ」、「商店街イベント」などが開催され、多くの市民が訪れる。祭のメインイベントは「踊り流し」で、約1万個の提灯で飾り付けられた駅前大通りで、のべ4,000人の踊り手が趣向を凝らした衣装で一斉に踊り流す。
 この祭は1965(昭和40)年に安積郡9カ町村が郡山と合併し新しい郡山市が生まれたのを契機にして、市民が一体となれる祭をという気運が高まり、『万葉集』に歌われた「安積香山影さえ見ゆる山の井の淺き心を吾が思はなくに」の一首がもととなっている郷土伝説「安積釆女」*を主題として「うねめまつり」が開催されるようになった。
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みどころ

踊り流しはコンクール形式となっており、公式な采女踊りを披露する「正調部門」、自由な振り付けの「創作部門」、このほか装飾を競い合う「山車」や「仮装」の各部門、特別賞や優秀賞を含め、13の賞を設定、参加団体は日夜「大賞」を目指し練習を重ねている。各団体ごとに趣向を凝らしたアレンジをしている点も大きな見どころ。
 また、直径10尺(約3.3ⅿ)の「うねめ太鼓」の響きも祭りを盛り上げる。
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補足情報

*「安積釆女」:采女は、もともとは古代の大王や天皇に使える巫女、あるいは下級女官であり、地方の国造から差し出されていたといわれている。また、国造のもとに使えていたものもいたという。「安積采女」は、『万葉集』(巻16)によると、奈良時代初期、葛城王(橘諸兄とされている。684~757年)が、地方の政情視察、監督のためにこの地に到来したが、国司らが「祗承緩怠異甚(あしらふことおろそか)なりければ、王の意に悦びず、怒色顕面まして、飲饌(みあへ)を設けしかどもたれど宴楽をも肯たまはざりき、於是前采女風流娘子ありて、左の手に觴(さかづ)を捧げ、右手に水を持ち、王の膝に撃ちてこの歌を詠みき、爾乃(ここに)王の意解脱(なご)みて、 終日に樂飮(うたげあそ)びきいえへり」 と添え書きをした「安積香山影さえ見ゆる・・・」の一首が載せられていることがもとになっている。伝説では、この後、この采女「春姫」は葛城王に召し出され、意に添わぬまま都(奈良)にのぼったものの、帰郷の心が強く、猿沢の池に身を投げたように見せかけ、安積の里に戻ったという。しかし、後難を恐れた村人たちの態度に、失意のうち、歌に出てくる「山の井」の清水に身を投げたという。
このような「采女伝説」は雨乞習俗や水神信仰とも結び付き、全国各地にある。奈良にも猿沢の池に身投げした「采女伝説」があり、春日大社の末社采女神社では「采女祭り」が催される。この縁で、郡山市と奈良市は姉妹都市となっている。