檜枝岐歌舞伎ひのえまたかぶき

 檜枝岐での歌舞伎興行は、1743(寛保3)年に購入された浄瑠璃本が残されており、1810(文化7)年の絵図に舞台が描き込まれ、1846(弘化3)年に歌舞伎衣装の借用の記録があるため、江戸後期から盛んになったとされる。現在も、地元民が伝統を継承するため「千葉之家花駒座」*の名で伝承、上演活動を行っている。
 檜枝岐の舞台での歌舞伎の上演は毎年5月12日の「愛宕神祭礼」、8月18日の「鎮守神祭礼」に、それぞれの神に奉納するため行われる。また、毎年9月の第一土曜日にも「歌舞伎の夕べ」が開催され上演されるほか、不定期の公演があることも。『絵本太功記』 『一之谷嫰軍記』や地元オリジナルの 『南山義民の碑』など11本の演目が伝承されている。常設舞台のある鎮守社の石鳥居脇には「歌舞伎伝承館千葉之家」があり、檜枝岐歌舞伎や舞台についての資料などが解説、展示されている。
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みどころ

江戸時代、江戸の華であった歌舞伎を地方でも楽しもうと、庶民が自ら習い上演したという熱意が伝わる農民歌舞伎。とりわけ、檜枝岐歌舞伎は、地方独自の工夫をこらしつつ、素朴だが、江戸後期の形式をよく残しているといわれている。
 檜枝岐の舞台は、昭和51年に国指定重要有形民俗文化財に指定された建物で、舞台を中心にして鎮守社を最上段として急傾斜な石段の座席が設けられ、夜の帳とともに舞台が浮かび上がる。通常では1,200名ほど収容でき、5月、8月、9月の上演では標高約940mの清々しい空気を感じながら鑑賞できる。
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補足情報

*農民芸能としての歌舞伎:江戸幕府による歌舞伎の取り締まりが繰り返し行われたため、農民芸能としての「歌舞伎」も「狂言」「芝居」「物真似」「野芝居」などの名目で行われていた。南会津地方での歌舞伎興行自体は貞享年間(1684~1688年)頃から行われていたとされるが、演目や興行の形式の詳細は分かっていない。江戸後期に入ると、「習い狂言」「買い狂言」「集り狂言」「両村狂言」等多様な興行形式で農民や民衆が参加した農民芸能としての歌舞伎興行が各地で行われた。
*常設舞台:檜枝岐の舞台は、檜枝岐村の鎮守社(駒形大明神・燧大権現)の境内にあり、1893(明治26)年に焼失し、その後まもなく再建されたもの。舞台の間口は7.69m、奥行7.04mで兜造、茅葺き。大桃の舞台は、南会津町大字大桃の駒嶽神社の境内にある舞台で、1895(明治28)年に再建されたもの。舞台の間口7.64m、奥行8.56mで小廂付き切妻造、茅葺きとなっている。花道は両舞台とも上演時に設けられる。湯ノ花、小中津川にも常設舞台が現存している。 
*千葉之家花駒座:檜枝岐歌舞伎は明治初期には村外での公演活動もすでに行なっていたが、大正後期に当時の村長だった星愛三郎が「千葉之家花駒座」と名付け、自らが座長をつとめ、檜枝岐歌舞伎の上演、伝承活動に取り組んだ。第2次世界大戦後、一時、継承が危ぶまれる時期もあったが、行政の支援、観光事業との連携によって、現在も座員約30名で活動を継続している。