芋煮会いもにかい

芋煮会は、河原で天高く晴れわたった秋の空のもと、サトイモ*、牛肉、コンニャク、ネギなどをしょうゆベースの出汁で煮て食べる行事。日本海岸側の庄内地方では牛肉のかわりに豚肉を使用し、うまみを出すために酒粕をいれ味噌仕立てで煮るなど、山形県内においても材料や出汁の違いは見られる。
 起源は諸説あるが、 もっとも代表的なものは、最上川の舟運に関連するものだ。江戸期から奥羽本線が開通する明治期まで流通を担っていた最上川舟運の港が現在の中山町長崎*にあったことから、この地で酒田から船で運ばれてきた塩や棒鱈などの干魚などの荷が降ろされ、置賜地方各地への船荷の積み換えが行われていた。船頭たちが、港近くの堤で運んできた棒鱈とこの地の特産であるサトイモを野外で煮て食べたのが始まりだという。また、山形藩藩主秋元志朝が1845(弘化2)年に上野館林に転封する際には、芋を煮て別離の宴があったといわれていることから、すでにこのころには芋煮は定着をしていたといえよう。現在のようにグループ、家族で野外での芋煮が広まったのは明治期以降で、牛肉や豚肉を使うようになったのは、大正あるいは昭和初期からだといわれている。
 山形県内では、現在も秋になると各地の河原で、芋煮会が様々な形で開かれるが、最大のイベントは、山形市馬見ヶ崎の河川敷で行う「日本一の芋煮会フェスティバル」*である。また、発祥の地といわれる中山町では「元祖芋煮会in中山」*が開催される。
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みどころ

司馬遼太郎は「街道をゆく」のなかで、「大きな器に、汁が入っている。ふたをとると、汁の中に、サイトイモと牛肉と白ネギが入っていて、サトイモが大変なうまさだった」と書いている。芋煮会は「秋分にのころにサトイモがとれるからだが、ひとつには稲の取り入れ前に骨休めとすることもあるだろうし、また足早やにやってくる冬を前のほんのひとときのいい季節を楽しむということもあるのかと思える」と記している。
 「日本一の芋煮会フェスティバル」の大鍋での調理には、鍋の大きさにも驚くが、大型重機まで使用しダイナミック。野外での温かいに芋煮はことさら美味。(志賀 典人)
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補足情報

*サトイモ:芋煮にはサトイモが必須だが、これは、かつてはサトイモの長期保存が利かなかったため、冬が来る前へに消費する必要があったためともいわれている。
*中山町長崎:1694(元禄七)年、中山町長崎から白鷹町荒砥までの航路が開かれるまでは、この地が最上川舟運の終点であった。
*日本一の芋煮会フェスティバル:1989(平成元)年から毎年敬老の日前日に開催している。直径6.5mの大鍋に里芋4t、牛肉1.4t、こんにゃく5,500枚、ねぎ5,000本、味付け醤油820リットル、隠し味に日本酒90升、砂糖200kg、山形の水6tを入れ、6tの薪(ナラ材)で煮炊きする。この大鍋の芋煮を食べるための整理券(少額の協賛金で提供)が必要。また、テント内で食べられる予約制の芋煮茶屋も出店している。
*元祖芋煮会in中山:毎年9月の最終土曜日に開催。古くから伝わる芋棒煮が先着で振舞われる。