善寳寺ぜんぽうじ

JR羽越本線鶴岡駅の北西約10km、湯野浜温泉から約4km。鶴岡市の西部にあり、市街地と日本海を隔てるように立つ高館山の北東麓に、庄内平野と向かい合うようにある。天慶・天暦年間(938~957)の創建と伝えられ、その開基に関する伝承は、平安末期の説話集「今昔物語集」*にも載っている。境内にある貝喰の池には龍神伝説*があり、そのため、古くから庄内地方を中心とした漁民や海運に従事する人の信仰を集めている。
 総門*手前、右手には当寺の前身であった龍華寺の本堂を移築再建した龍華庵、三十三観音堂が建ち、総門をくぐると正面に山門*、左手奥の木立の中に五重塔*、その左手前には弥勒堂*、右手には五百羅漢堂*などが建ち並ぶ。山門を経て石段を登り詰めると本堂や大書院などがあり、本堂の裏手の一段高いところに龍王を祭る龍王殿*が祀られている。貝喰の池と龍王殿の奥の院は、本堂から400mほど北にある。
 参籠祈祷や座禅、精進料理も体験できる。曹洞宗三大祈祷霊場*の一つ。
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みどころ

鶴岡出身の藤沢周平は小説「龍を見た男」のなかで、善寳寺は「海運、漁撈に従う人々に深く信仰され、江戸時代に入って、海運による各地物産の交流が激しくなると、遠く北は松前、西は摂、河、泉の国々まで信者がふえ、八代将軍吉宗の頃には、禅宗寺院としての伽藍をととのえるようになった。 加えて宝暦年間に弥勒菩薩を勧請すると、いよいよ庶民との結びつきが深まったのである」と、江戸期の隆盛を書いている。現在も広大な境内にその堂宇の一部が建ち並んでおり、隆盛の面影を残す。 
 五重塔はその存在感も見事だが、軒下にある十二神将等の彫刻が精緻である。どっしりした姿の弥勒菩薩や彩り豊かな衣を身に付けた五百羅漢も見ごたえある。また、本堂裏の龍王殿は、竜宮城を模したといわれるだけあって、唐様で他の堂宇と趣きが異なり、その色合いは周囲の緑に映える。屋根は海のうねりを模り、軒組には滝登りをして龍になろうとする鯉、波しぶき、鯱、それに雲と草花などが彫られており、龍と海との繋がりが色濃く出ている。(志賀 典人)
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補足情報

*「今昔物語集」:今昔物語のなかでは、法華経の行者妙達が突然、法華経を握ったまま亡くなったが、七日後に蘇生した。その理由は閻魔大王から、「法花経ヲ持テ濁世ニ法ヲ護ル人」である妙達に「日本國中ノ衆生ノ善悪ノ所行」を説聞させたいので、生き返って「善ヲ勸メ悪ヲ止メテ衆生ヲ利益セヨ」と告げられたという。このことを聞き、精進する妙達のもとに多くの信者が集まったという。
*龍神伝説:庄内地方の伝説。貝喰の池に天下った龍王と龍女が人間の姿となって妙達上人の法話を聴きに来たことを上人は見抜き、感服し戒道の名を与えたところ、龍王と龍女はこの寺と信者を未来永劫護持すると誓って池に戻ったという。それから、この地を「龍華寺」と呼ぶようになったという。さらにそれから三百数十年後とそのさらに百三十余年後にも二龍が法悦の座に現れたということから、三度の奇瑞にあやかり、1446(文安三)年に浄椿禅師が寺の名を善寳寺、山号を龍澤山に改めたという。このため、善寳寺の開山の祖は浄椿禅師とされている。
*総門:1856(安政3)年に再建。十二支を主体とする彫刻で装飾された総門。
*山門:1862(文久2)年再建。総ケヤキ造り、銅板葺きの楼門。門の両脇には右に「毘沙門天」左に「韋駄天」が鎮座する。
*五重塔:1893(明治26)年に建立。材料は総ケヤキ造り、屋根は銅板葺き、高さ38mの塔は「魚鱗一切之供養塔」として豊漁と海の安全を祈願して建立。軒下の4面には十二神将の彫り物がある。
*弥勒堂:石造の弥勒菩薩が安置。宝暦年間(1751~1764年)の未曽有の飢饉の際、病魔退散、五穀豊熟を祈願し、弥勒尊像を建立。さらに庶民からの信仰を集めた。
*五百羅漢堂:1855(安政2)年建立。531体の羅漢像が安置されている。表情、姿勢、衣装いずれも異なっているのが興味深い。北前船の商人たちの寄進によって建てられた。
*龍王殿:1833(天保4)年に再建。権現造りの伽藍。龍の王が棲むといわれる竜宮城を模して造られ、彫刻などに龍と海との繋がりを示すものが施されている。左手の金色の扉の中に善寳寺龍道大龍王、戒道大龍女の二龍神が安置されている。
*曹洞宗三大祈祷霊場:善寳寺のほか、神奈川県の最乗寺、愛知県の妙厳寺(豊川稲荷)
関連リンク 龍王尊祈祷道場 善寳寺(WEBサイト)
関連図書 須藤克三・野村純一・佐藤義則著『日本の伝説4 出羽の伝説』角川書店、1976年、藤沢周平著『龍を見た男』新潮社、1987年
参考文献 龍王尊祈祷道場 善寳寺(WEBサイト)
デジタルコレクション『攷証今昔物語集. 中』国立国会図書館

2020年12月現在

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