強首温泉 樅峰苑こわくびおんせん しょうほうえん

JR奥羽本線峰吉川駅の西へ約4km、雄物川を渡った強首*1集落のなかに建つ。宿の建物は、江戸時代からの豪農であった小山田家*2が1917(大正6)年に建築した本邸で、1966(昭和41)年から旅館を営んでいる。屋根の千鳥破風、軒唐破風付き入母屋とムクリ破風の玄関など豪壮な正面構えとなっており、また、1914(大正3)年の秋田仙北地震*3後の建設であるため、地震対策として、屋根裏までつながる太い柱や、梁と柱を結ぶ木組みに筋交い、大広間に着脱可能な中央柱の設置など、構造上の工夫が見られる。敷地面積は約2000坪、建物は約200坪で、客室は7室。
 温泉は含よう素・ナトリウム・塩化物強塩温泉で、泉温は約49.8℃、ヒノキ造りの内湯と木立を前にした露天風呂がある。
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みどころ

かつての豪農・大地主の本邸であるだけに、室内の造りも鹿鳴館風の階段室や、16mほどの1枚板の天然秋田杉で通した廊下などがあり、極めて重厚な造りで、良材で造られていることが分る。また、広大な庭園は樹齢約380年と推定される「モミの木群」に覆われ、まさに大本家のどっしりとした風格に溢れている建物だ。
 ヒノキの内湯もよいが、木立に囲まれた庭に独立して設えられた露天風呂は、塩分を含むお湯が身体を温めてくれるとともに、大樹を目の前に心も癒される。料理は、雄物川で獲れる川蟹(モクズガニ)など地物を中心としたメニューで、品のよい和会席。
 敷地内にある資料館には、寛文年間(1661~1673年)から昭和初期までの小山田家の歴史を物語る約2,000点の古文書や什器、装飾品などの収蔵品が展示され、江戸時代における豪農・大地主の生活や明治期以降この地のリーダーとしての同家の役割などを垣間見ることができる。
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補足情報

*1 強首:この地は雄物川が大きく屈曲し、Uの字の先端部分にあたる場所であることから、水利はよく農耕地として早くから開発されてきたものの、洪水なども多く、古くから治水に努めてきた。1801(享和元)年にこの地に入った紀行家菅江真澄の「月出羽路」によると「里正」は佐々木卯兵衛と小山田文五郎(小山田家10代)であり、強首の名は「此村慶長のはじめまでは強巻(こはまき)と云ひし地也、今も川の向には逆巻、石巻などのいへる字もありといらへせり。うべ(宜:もっともなこと)も巻は水の洑(うずまく)事を云ひて此淵の岸浪高く、みな(水)はさかまき、安げに舟の往來ならざれば渡困(わたりこはし)といへる詞ぞ名に立りける」と推論している。その「困(こはし)」という言葉を「強」と表記したとも記しており、川の回流形に沿う場所から由来しているとしている。また、「新墾(あらたにひらい)て稲多く佃(つくり)けるに、稲穂の八束穂にしなふ熟田を人々うらや」むほどの豊かな地であったとも記している。
*2 小山田家:1602(慶長7)年に秋田藩初代の藩主佐竹義宣が常陸国(茨城県)から秋田に移封されたのに伴い、最初は、西木村小山田集落(現・仙北市)に入り、その後、開田や水運の便を考え強首村に移住した。江戸時代前期(17 世紀後半)からは強首村の肝煎(名主・庄屋)などを務め、藩主の領内巡回時の宿泊所にもなっていた。延宝年間(1673~1681年)以降には、強首村及び周辺一帯の新田開発などに尽くし、江戸後期には造り酒屋も営んでいた。明治期以降は歴代、村長や県会議員、国会議員などを務め、昭和初期には秋田・河辺・仙北・由利の1市3郡に約450町歩(450万m2)の田地を所有していた。現在は強首温泉樅峰苑の経営などにあたっている。
*3 秋田仙北地震:1914(大正3)年3月15日に起こったm7.1 の内陸地震。雄物川流域の低平地と横手盆地を中心に死者94名、負傷者324名、全潰640の住家被害などがあった。震度7の激震地域は強首村の強首、木原田、大沢郷村北野目、神宮寺町宇留井谷地及び大曲町の東側などであった。