中尊寺ちゅうそんじ

中尊寺は天台宗の東北大本山で関山と号し、山内の寺塔僧房(17支院)からなる一山寺院をいう。JR東北本線平泉駅から北北西へ約2km、北上川と衣川の合流点の西、こんもりとした小山の中にある。蝦夷と称せられた藤原三代*が100年築き上げた仏国土建設の跡である。
 寺伝によれば850(嘉祥3)年、慈覚大師*が弘台寿院(こうだいじゅいん)を建てたのが始まりで、859(貞観元)年、清和天皇によって中尊寺と改められたといわれる。1105(長治2)年、藤原清衡*が堀河天皇の勅命により再興し、21年を費して堂塔40余・僧房300余を建立、奥羽屈指の大寺院となった。1126(天治3)年落慶供養が行われたが、その規模は供養願文*によって偲ばれる。1189(文治5)年、藤原氏が滅亡、その後はしだいに衰えていった。1337(建武4)年、野火のため一山ことごとく焼け果て、わずかに金色堂と経蔵の一階のみが残った。その後、北畠顕家が復興に力を尽し、江戸時代には、伊達政宗が後水尾天皇の命で諸堂の修理を行った。
 表参道入口前広場に弁慶墓といわれる五輪塔がある。老杉の茂る表参道月見坂をのぼって右手に視界が開けたところが東物見*で、左手には八幡堂・弁慶堂*などがある。一山の根本道場である本堂は参道右手に建つ。さらにその奥に旧鐘楼*・讃衡蔵(さんこうぞう)*・金色堂*・経蔵*・旧覆堂*などがある。北側奥には白山神社や能楽堂*・食事処 かんざん亭・西の物見などがある。国宝・重要文化財を含む寺宝は約3,000点にも及び、境内は特別史跡に指定されている。
 1月1~8日には山内の諸堂を会場に修正会が行われる。また、5月1日〜5日には春の藤原まつり、11月1日〜3日には秋の藤原まつりが開催される。
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みどころ

樹齢300から400年の杉並木が続く壮観な表参道「月見坂」を上ると、途中の展望台からは衣川に沿った長閑な農村景観を眺めることができる。月見坂の道のりには、源義経と弁慶の像を安置する「弁慶堂」、比叡山延暦寺から分火された「不滅の法灯」が灯る本堂、「峯薬師堂(みねやくしどう)」、「阿弥陀堂」などのお堂が点在し、見どころが続く。月見坂を進むと国宝・重要文化財宝物館の「讃衡蔵(さんこうぞう)」があり、中尊寺に伝わる仏像や経典、装飾品など、多くの貴重な文化財を多数鑑賞できる。
 そして、見逃してはいけないのが「金色堂」。中尊寺創建当初の姿を今に伝える唯一の建造物。金箔・蒔絵・金工による装飾は、奥州藤原氏の往時の富と平安時代の工芸技術の粋を結集したもので、見る者を圧倒する。
 見学には2時間以上欲しいところ。
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補足情報

*藤原三代:平安後期、奥州の豪族。前九年の役(1051〜1062年)に安倍氏に味方して敗死した亘理権太夫藤原経清(わたりのごんのたいふふじわらつねきよ) の子清衡*は、母の再嫁した清原氏に養われていたが、後三年の役(1083〜1087年)に源義家と結んで独立し、平泉に館を構えて奥羽両国に勢力をふるった。以後基衡*・秀衡*の3代に全盛をきわめ、京文化を吸収移植し、中尊寺・毛越寺などを残した。秀衡は源平の争乱(治承・寿永の乱)に中立を保ち、源義経を保護して終世変わらなかったが、4代泰衡 は源頼朝の圧迫に屈して義経を討ち、その後、頼朝に滅ぼされた(1189(文治5)年)。
*藤原清衡:1056(天喜4)~1128(大治3)年。平泉平安後期の陸奥の豪族。後三年の役で源義家に味方し、のち陸奥・出羽を支配。平泉に中尊寺を建立した。亡骸は中尊寺金色堂に現存。
*(藤原)基衡:1157(保元2)年没。平安末期の豪族。陸奥・出羽押領使。関白藤原忠実を本家と仰ぎ、平泉に居館を構える。陸奥六郡を支配し、父清衡、子秀衡とともに奥州藤原氏の栄華を誇った。
*(藤原)秀衡:1187(文治3)年没。平安後期の陸奥の豪族。基衡の子。鎮守府将軍。平家滅亡後は、源義経をかくまって頼朝に対抗。奥州藤原氏3代の栄華の頂点をつくった。
*慈覚大師:円仁、794(延暦13)年~864(貞観6)年。第3代天台座主。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏。
*供養願文:大伽藍 中尊寺建立の趣意。敵味方を問わず、戦によって命を落とした全ての者、身を滅ぼしたものの霊魂を供養し浄土に導くため、また蛮地ではあるが仏土をあらわそうという趣意が示されている。金堂は3間四方、左右に22間の廊下が設けられ、三重塔3基、2階建経蔵、2階建鐘楼、大門3戸、築垣3面のほか反橋、斜橋、龍頭鷁首の船2隻を備えたとある。しかし、これらの施設の位置は現在も不明である。
*東物見:東屋があり、衣川の盆地が一望に開ける。北上川に衣川が西から注ぎ、一帯は衣川古戦場と伝わり、衣川上流に安倍氏の館や砦があった。弁慶立往生の地は衣川橋の近くだといわれる。
*弁慶堂(愛宕堂):東物見の左手にある。1828(文政11)年に再建されたもの。堂内に本尊勝軍地蔵のほか、弁慶衣川立往生の等身木像や笈(おい)、秀衡椀などがある。笈とは、修験者の山岳修行のための背負箱。室町時代のものといわれる。鎌倉彫の技法を用い、彩漆を施し金箔を貼ったさまざまな文様が見られる。
*鐘楼:1343(康永2)年改鋳の銘文がある。
*金色堂:岩手県平泉町の中尊寺にある藤原清衡・基衡・秀衡3代の廟堂。1124(天治元)年清衡が建立。中尊寺創建当時の唯一の完全な遺構で、内外を黒漆で塗り、金箔を押したのでこの名がある。藤原時代工芸技術の粋を集めている。光堂とも呼ばれる。
*経蔵:金色堂の西北に隣接する。3間四方、単層、宝形造。中尊寺創建当時からの建物で、最初は2階瓦葺だったが、1337(建武4)年の火災により2階を焼き単層となった。堂内の三方に黒漆塗の経棚7段があり、中尊寺経として名高い装飾経、紺紙金字一切経のほか、宋版一切経などが保管されていた。
*旧覆堂:5間四方、単層、宝形造、屋根は明治初年まで茅葺であったが、現在は銅板葺となっている。1288(正応元)年、金色堂建立の165年後に風雨にさらされている金色堂を保護するために、鎌倉幕府が建てたものである。
*讃衡蔵(さんこうぞう):金色堂のすぐ下にある。外観に藤原期の様式美をとり入れた現代的な建物で、2000(平成12)年に完成した。中尊寺山内17カ院に伝わる文化財や美術品3,000余点を収蔵している。
*能楽堂:白山宮に付随するもので、1853(嘉永6)年に再建された。茅葺の能舞台で喜多流の古格を備える。中尊寺の能は神事能を本分としていたが、伊達領になって現行の猿楽能に移行した。流儀は喜多流。新作能「秀衡」は有名で藤原まつりに演じられる。なお、神事能も、5月1日〜5日に開催される春の藤原まつりで、古実式三番に続いて奉納されている。

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