櫛引八幡宮くしひきはちまんぐう

八戸市の南西、国道104号沿いにある。古くから南部家*の総鎮守の社、祈願所であった。1664(寛文4)年に八戸藩が盛岡藩から分立した後、盛岡藩の飛び地として残されたのも南部家にとってそれほど重要であったといえる。本殿は1648(慶安元)年南部重直の造営といわれ、三間社流造(さんげんしゃながれづくり)*で屋根は切妻であり、屋根の庇(向拝)などには様々な彫刻が施されている。
 宝物殿には国宝2点の鎧兜はじめ、甲胄類など数多く収蔵している。また社務所横には明治記念館(旧八戸小学講堂)があり、1881(明治14)年に建設された2階建ての建物で、外観は洋風、内部和風の明治時代初期の木造洋風建築の様式を持っている。保存を目的に現在地に移築されたもの。
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みどころ

敷地は約5.3万m2と広大で、神域内には樹齢数百年を経た老杉が立ち並び荘厳な雰囲気となっている。参道の正門の奥に平屋の門のなかで最も格式の高い形式の四脚門がある。その奥の本殿の構えは壮大でかつ優美であり、特に屋根の流れの曲線の美しさは特筆される。また柱や向拝には数多くの河童や獅子、梅など動植物の手の込んだ彫刻が見られる。
 正門の手前にある国宝館には赤糸威鎧兜、白糸威褄取鎧兜の2点の国宝他数多くの文化財が収蔵されている。この2点の鎧兜は鎌倉時代末期の典型的な鎧といわれ、装飾の豪華さ、色合いの美しさにおいて日本を代表する甲冑のひとつと言われている。
 明治記念館(旧八戸小学講堂)は、県内に現存する洋風建築では最古のものであり、校舎が完成した年に明治天皇の東北御巡幸があり、落成したばかりのこの講堂が、行在所として用いられた。
 
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補足情報

*南部家:中世の陸奥国の豪族。源氏の南部光行(みつゆき)を祖として、山梨県南部町を名前の地とする。鎌倉末期の頃岩手県北部から青森県東部一帯に北条氏の代官として入ったものと考えられている。1590(天正18)年三戸家の南部信直(のぶなお)が豊臣秀吉から南部7郡の領有を認められて近世大名としての基礎を築いた。江戸期の居城は盛岡城で、代々盛岡藩を世襲して明治に至る。
*三間社流造:神社建築の様式で最も一般的とされる「流造」のうち、正面の柱が4本、柱間の間口が3間あるもの。
関連リンク 櫛引八幡宮(WEBサイト)
参考文献 櫛引八幡宮(WEBサイト)
『青森県の歴史散歩』青森県高等学校地方史研究会(編) 山川出版社
『青森県の地名』平凡社

2023年07月現在

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