稚内港北防波堤ドームわっかないこうきたぼうはていどーむ

稚内港北埠頭が旧樺太航路(稚泊(ちはく)航路:稚内-大泊、稚斗(ちと)航路:稚内-本斗(ほんと))の発着場として使われていたとき、ここに通じる道路や鉄道に波の飛沫がかかるのを防ぐ目的で、1931(昭和6)年から1936(昭和11)年にかけ建設された高さ13.6m、全長427mの防波堤。防波堤に沿って造られた70本の柱列とドーム型の屋根が波の掩蓋(えんがい)を支える構造になっている。自然の力をしなやかに受け止めるデザインを追い求めた結果、上部は独特のアーチ型の形状になったという。樺太へと渡る人々で賑った頃のシンボルでもあり、古代ローマ建築物を思わせる太い円柱となだらかな曲線を描いた回廊は、世界でも類のない建築物として注目をあびた。北防波堤ドーム内には、稚内桟橋駅が設けられ、稚内港駅(現稚内駅)からドーム内まで鉄道が延伸された。当時、乗客は稚内桟橋駅で列車を降り、ドームを歩いて桟橋を渡り、岸壁に横付けされた樺太連絡船に乗り込んだ。
 稚泊航路は、1945(昭和20)年にソ連軍の南樺太侵攻によって閉鎖されるまで、284万人もの人々を送客した。稚泊航路の閉鎖以降、石炭貯炭場や資材倉庫として利用されていたが老朽化が進んだため、市民からの強い保存要請を受けて1978(昭和53)年から1980(昭和55)年にかけて原型のまま改修復元された。
#

みどころ

利尻島や礼文島に向かうフェリーの上から、市内のホテルの上層階から全景をみることができ、このような建築物があることを不思議に思うだろう。JR稚内駅から徒歩で10分程度で行くことができるので、遠くから眺めるだけでなく、近くまで行って大きさや、特徴的な建築様式に直に触れるのが良い。こうした古代ローマ風の建築物を思わせる防波堤がここにできた理由、歴史的な経緯を知ることによって、見方や感じ方が深まるのではないだろうか。
#

補足情報

*稚内港は大正時代の終わりから北方交通の要衝として樺太との間に航路が開設されていた。しかしながら四季を通じて強風が吹き、波が高いことから防波堤や岸壁など港の整備が課題だった。しかしながら建設中だった防波堤をつくるためのケーソンが高波で倒壊するなど工事は難航した。こうした中、事務所長は1931(昭和6)年1月に、技師として赴任したばかりの北海道大学卒業後3年目の土谷実(当時26才)に、樺太航路を高波から護るために「庇をつけた」岸壁を設計し、4月からの着工に間に合わせるように命じた。土谷は北大工学部の第一期生で、卒論のテーマは『コンクリートアーチ橋梁の設計』だったものの、コンクリートが建築・土木用の資材としてようやく普及しはじめたばかりで、技術資料もなかった時代であり、愕然としたという。土谷は母校を訪れて相談したものの、方向性がみいだせないまま稚内に戻って描いたのが今日の北防波堤ドームの形になったといわれている。後に土谷は「おそらく大学時代に先輩から見せてもらった古代ギリシャの神殿の写真が潜在意識にあったかも知れません」と語っている。