海士町は日本海の島根半島沖合約60kmに浮かぶ隠岐群島の島前諸島の中の一つである中ノ島1島からなる。隠岐諸島は大小180余りの島々から成り立つ群島型離島で、人が住む島は西ノ島(にしのしま:西ノ島町)、中ノ島(なかのしま:海士町)、知夫里島(ちぶりじま:知夫村)、島後(どうご:隠岐の島町)の4つで、島後に対して西ノ島、中ノ島、知夫里島の3つをあわせて島前と呼び、大きく2群島に分けられている。
北西部の内海に面した平坦地に菱浦港があり、鳥取県境港、松江市の七類港との間に定期航路がある。
対馬暖流の影響を受けた豊かな海と名水百選(天川の水)に選ばれた豊富な湧水に恵まれ、自給自足のできる半農半漁の島。中ノ島は大山隠岐国立公園に指定されている。島の東北から西南にかけて縦走する山脈があり、山脈の西北部は平坦な水田地帯と丘陵が多い。東南部は外海に面し、平地に乏しく傾斜が急である。山は海士山脈中に唯山(226.5m)、高峯山(203.9m)、金光寺山(120m)があり、島の西北端には急峻な家督山(246.2m)が本島の最高標高となっている。諏訪湾に注ぐ諏訪川や境川が流れるが、源流を神崎川に発する水量は乏しい。3つの島に取り囲まれる島前の内海は約 50 km2の広さを持ち、最大水深は55mである。
1969年(昭和44)町制施行。古代海部郡。地名は海洋漁猟民の海士に由来する。小野篁、後鳥羽上皇の配流の地で、明治初年には徹底した廃仏毀釈が行われた。平城京跡から海士町の「干しアワビ」等が献上されていたことを示す木簡が発掘されるなど、古くから海産物の宝庫として御食つ國に位置づけられていた。奈良時代から遠流の島として遣唐副使の小野篁をはじめ、承久の乱(1221年)に敗れて配流された後鳥羽上皇は在島17年余でこの島で生涯を終え、島民の畏敬の念はいまなお深い。明治の文豪小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、隠岐旅行の際「菱浦港」を最も気に入り8日間滞在したことが小説「知られざる日本の面影~伯耆から隠岐へ」の中に書かれている。
半農半漁の島で、茶、米等の栽培や隠岐牛が生産され、カキやサザエ等の貝類やナマコなどを産する。
後鳥羽上皇に関する資料は海士町後鳥羽院資料館で展示されている。菱浦港から観光用半潜水型展望船が就航する。菱浦港付近で採取されるクロキヅタは国の天然記念物。

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