近鉄橿原線西ノ京駅のすぐ南東にあり、境内に立つ三重塔は西ノ京のシンボルになっている。西ノ京駅から道を左にとれば、與楽門からすぐ境内に入れるが、正面は南側の南門となる。伽藍配置は、南門*1、中門、本尊の薬師三尊像(国宝)を祀る金堂*2、教学の中心となる大講堂*3、僧侶が食事をする食堂*4が南北に一直線に並び、金堂の左右(東西)に2基の塔*5を配し、これらを囲むように中門から回廊が巡らされ、その周りに東院堂・僧坊*6が配置されている。このような伽藍は薬師寺式伽藍配置とされ、法隆寺式につぐ古い型式のものとされる。
 薬師寺の歴史は680(天武天皇9)年、天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈って飛鳥浄御原宮で創建*7を発願されたことに始まり、持統天皇、文武天皇の代まで造営は継続した。平城遷都に従って、718(養老2)年、平城京の右京六条二坊の現在地に移され、以後飛鳥の寺を本薬師寺*8、新都に移した寺を薬師寺と呼び、現在地における造営*9は730(天平2)年まで続いた。移転当初の伽藍は龍宮造りといわれ、壮麗な建築だったとされる。南都七大寺*10の一つに数えられる官寺であったが、平安遷都後は天災や戦乱による災禍にあい、さらに1528(享禄元)年、筒井順興の兵火で金堂、西塔、講堂など多くの伽藍を焼失した。創建時から現存する建物は東塔のみとなった。
 伽藍の再建の動きは、1968(昭和43)年から創建当時の白鳳伽藍の復興を目指し始められた。まず、1976(昭和51)年に金堂が落慶し、以降、2017(平成29)年にかけて、西塔、中門、回廊、大講堂、食堂などの主要堂塔が復興した。
 なお、與楽門の北側には、1991(平成3)年に建立された、法相宗*11の始祖である玄奘三蔵を祀る「玄奘三蔵院伽藍」がある。また、南門の南側には、薬師寺を守護する、八幡三神像(国宝。現在は奈良国立博物館に寄託)が鎮座する休ヶ岡八幡宮*12がある。
 年中行事としては3月25日~3月31日の修二会花会式*13、11月13日の慈恩会*14などがある。
 拝観については、金堂、大講堂、東院堂は拝観時間内であれば常時公開している。
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みどころ

昭和から平成にかけての復興事業によって、多くの堂宇が再興され、かつての竜宮城のようにきらびやかであったという大寺の面影を取り戻している。寺宝の仏像も、それぞれの伽藍に安置され、輝きをみせている。寺全体のシルエットを捉えるには、薬師寺與楽門から1.2kmほど西南に行った大池の西畔から眺めるのが良いだろう。池越しの薬師寺の姿、ことに東塔、西塔が美しく、格好の撮影スポットだ。
 みどころは数多くあるが、あえて2つ挙げるとすれば、やはり、東塔と本尊の薬師三尊像だろう。
 東塔について哲学者の和辻哲郎は「三重の屋根の一々に短い裳層をつけて、あたかも大小伸縮した六層の屋根が重なっているように、輪郭の線の変化を異様に複雑にしている。何となく異国的な感じがあるのはそのためであろう。大胆に破調を加えたあの力強い統一は、確かに我が国の塔婆の一般形式に見られない珍奇な美しさを印象する。」と記している。和辻は「大胆な破調」としているが、これを見た多くの見識者たちが口を揃えるのが、塔がもつリズムの特異性であろう。このリズムを自分なりにどのように発見できるかが、この塔と向き合う時の楽しみかもしれない。そして、東塔を仰ぎ見つつ、佐々木信綱の「ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる 一ひらの雲」の情感も味わい尽くしたい。
 本尊の薬師三尊像については、文芸評論家の亀井勝一郎は「私は何よりもまずその艶々した深い光沢に驚く。千二百年の歳月にも 拘らず、たったいま降誕したばかりのような生々した光りに輝いているのである。何処からこの光りが出てくるのであろう。あたかも桎梏の体躯の底に光りの泉があって、絶え間なく滾滾とあふれ出てくるように思える。」と印象を述べている。この色は金箔が落剝して(火事で溶け出して)長い歴史が作り出したものだが、しかしこの光がこの仏像の「再び重厚体内に吸い込まれ、不断に循環しながら、云わば光りのメロデーを奏でているようだ。この循環のメロデーがそのまま仏体の曲線であり、また仏心の動きをも示しているといえないであろうか」とも付け加えている。東塔ではリズム、ここではメロディー、薬師寺では、歴史の「音楽」に耳を傾けるつもりで、寺宝に向き合うのがよいかもしれない。
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補足情報

*1 南門:南大門の旧跡の中心部に立つ切妻造の四脚門。国指定の重要文化財。小規模だが古代の余風を伝える室町建築である。永正9(1512)年の墨書があり、もとの西院の西門を移築したもの。1984(昭和59)年には金堂との間に単層の中門が復元された。もとの南大門は重層、5間3戸の大門で、平城京六条大路に面していたが、天平創建の門は973(天禄4)年に焼失。
*2 本尊の薬師三尊像(国宝)を祀る金堂:金堂は16世紀前半に兵火で焼失し、仮堂しか再建されなかった。1976(昭和51)年4月にいたり、ようやく創建当初の様式で復元した新金堂が再建された。2重2閣・入母屋造で、間口26.7m、奥行15.6m、高さ22m、金色に輝く鴟尾は高さ1.3m。
 本尊の薬師如来坐像とその脇侍の日光・月光菩薩立像は金銅仏で国宝に指定されている。「日本書紀」には、持統天皇11年(697年)7月29日の条に「開佛眼會於藥師寺」とあり、この仏像にあたると思われている。薬師如来坐像は像高約2.6m、日光・月光菩薩はともに約3m。もとは鍍金を施した金色の像であったが、金堂炎上のときの火焔とその後の雨露のため金色は失われ、つややかな黒光りする光沢をおびている。本尊台座も国宝に指定されており、上部周縁に葡萄唐草文様を、中部4面に裸形の蕃人を半肉浮彫に表わし、下層の東西南北に青龍、白虎、朱雀、玄武の四神を配し、その意匠は中国唐から西域、ギリシャ・ローマ美術にまで遡るとされている。
 また、1月1~3日には、奈良時代の作といわれる国宝の麻布着色吉祥天女画像も金堂で公開される。
*3 大講堂:金堂の背後にある。創建当初は7間4面、重層、裳階付きの堂であったと考えられている。現堂は2003(平成15)年に創建当初の規模で再建したもの。堂内の弥勒三尊像は、かつては阿弥陀三尊像、あるいは薬師如来三尊像ともされてきた。しかし、近世の早い時期から西院弥勒堂の本尊だったこともあり、法相宗の教学の場である大講堂の本尊であるということから、現在では弥勒三尊像としている。奈良時代の作とみられているが、諸説ある。国の重要文化財に指定されている。
 堂内には仏足石・仏足跡歌碑も安置されている。仏足石は高さ約69cm、奥行74cm、幅1.1mほどの不整形な6面の石の上面に、釈迦牟尼仏の足跡を線彫りにしてある。753(天平勝宝5)年の作とされ、国宝に指定されている。また、仏足跡歌碑は高さ約1.9mの粘板岩に仏足石を慕う歌17首、呵嘖生死の歌4首が万葉仮名で刻まれ、当時の仏教信仰を知る資料としても貴重ということから国宝に指定されている。
*4 食堂:創建当初に建立され、発掘調査の結果から約300人が一度に会することができる規模であったと考えられている。現在の建物は2017(平成29)年の再建。
*5 2基の塔:東塔は当寺に遺る創建当初唯一の遺構であり、国宝に指定されている。薬師寺が平城京ヘ移ったとき飛鳥から移築されたものか、新たに建築したものか、長年の論争となっていたが、現在では平安時代編纂の史書「扶桑略記」の天平2年(730年)3月29日条に「始建薬師寺東塔」とあることなどから、同年の新造営とする説がほぼ定着した。高さ36.4m、一見すると六重塔のようだが、各層裳階付きの三重塔である。塔上相輪部に薬師寺の縁起を記した擦銘があり、飛雲に奏楽の童児と飛天をあしらった水煙も独特の美しさをたたえている。
 西塔は東塔と向かいあう西塔跡に1981(昭和56)年4月、創建当初の姿を復元し再建された。高さ36.4m、各層裳階付きで朱塗りの三重塔である。再建にあたっては、西塔の建築外周部が100~200年で30cmほど下るため、各軒先は6cm上げて施工された。
*6 東院堂・僧坊:東院堂は東塔の東、観音池の近くにある。721(養老5)年ごろ、元明天皇のために吉備内親王が創建したと伝えられる。現在の建物は1285(弘安8)年の再建。正面7間、側面4間、入母屋造、本瓦葺で、国宝に指定されている。東院堂の本尊の聖観世音菩薩立像(国宝)は像高約1.9m、蓮華座の上にすっきりと立ち、左手を上げ、右手を下に、均整のとれた若々しい姿、崇高な表情を示す美しい彫像である。その優れた鋳造技法は金堂の薬師三尊像と共通するものがあり、この像も造立は白鳳時代とも、天平初期ともいわれる。
僧坊はかつて僧侶が住んでいたところで、東西の2棟があるが、現在の建物は近年に再建されたもの。
*7 創建: 創建の経緯については「日本書紀」によると天武天皇九年 (680年) 十一月癸未 (12日)の条に「皇后體不豫。則爲皇后誓願之。初興薬師寺。乃度ー百僧。由是得安平。是日。放罪。」(皇后が病気になったので誓願を立て薬師寺を建立し、百名の僧を得度させたところ、病気は快癒した)と記している。なお、飛鳥での創建時にあったとされる金堂は688(持統天皇2)年ごろの完成、伽藍が整ったのは698(文武天皇2)年と考えられている。
*8 本薬師寺:近鉄橿原線「畝傍御陵前」駅東出口から東へ約500m。現在は小堂が建つのみだが、かつての金堂の巨大な礎石群や、東西両塔の基壇や心礎などが遺されている。
*9 現在地における造営:薬師寺の移転については平安期にまとめられた「薬師寺縁起」には「養老二年戌午移伽藍於平城京。在大和國添下郡右京六條。二坊十二町。東西三町。南北四町。」との明確な記載がある。飛鳥から伽藍・仏像を移築・移転したか、寺院の名籍だけを移し、新都で伽藍・仏像を新しく造立したかについては明治時代から学説は分かれている。現在のところ、東塔で示されているように現在地での新造立説が有力だが、一部の堂塔、仏像については、資材の流用や移転もあったのではないかとされている。
*10 南都七大寺:東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺。法隆寺を唐招提寺とする場合もある。
*11 法相宗:唯識宗、応理円実宗、慈恩宗とも呼ばれて、南都六宗の一つ。玄奘三蔵が印度で教義を修得し、慈恩大師に伝授。これをもとに法相宗が開創されたといわれている。
*12 休ヶ岡八幡宮:南門前の松林の中にある。薬師寺の鎮守として、寛平年間(889~898年)に大分県の宇佐八幡宮から勧請されたと伝えられる。社殿は、豊臣秀頼の寄進による桃山時代の建築。三間社流造、桧皮葺の本殿をはさみ、東西には脇殿が連なる。国の重要文化財に指定されている。祭神像の僧形八幡神・仲津姫命・神功皇后坐像の3体を所蔵しているが、現在いずれも奈良国立博物館に寄託中。
*13 修二会花会式:薬師寺における修二会。修二会は奈良の大寺で国家繁栄、五穀豊穣、万民豊楽などを祈願する法要で、旧暦2月に行われることから、この名が付いた。薬師寺では新暦に直し、3月下旬に行っている。東大寺では「お水取り」とも称されているが、薬師寺では10種の造花が本尊に供えられることから、「花会式」と呼ばれている。参籠する僧「練行衆」が1週間の法要を勤める。最終日には「鬼追い式」で法要の結願を迎える。
*14 慈恩会:11月13日に興福寺と合同で行われる(偶数年は薬師寺で、奇数年は興福寺で行われる)。951(天暦5)年に始まった法要で、教学を深めるための論議、問答を中心に行う。参拝、聴聞は可能で、薬師寺所蔵の慈恩大師像が公開される。