魚の棚商店街
JR西・山陽電鉄の明石駅南側、徒歩5分のところに位置するアーケード商店街で、東西に260m、南北の横道まで含めると延350mになる大規模なものである。鮮魚店や海産物店を中心に約100軒の店舗が連なっている。
明石市は明石海峡を挟む大阪湾、播磨灘に面し、強い潮流と複雑な地形により沿岸漁業が盛んである。その産物として特産の鯛、蛸を始め、イカナゴ、アナゴ等が水揚げされる他、ノリ、ワカメなどの養殖、鯛や平目、車海老などの栽培漁業も行われている。そのため古くから海産物*1の問屋や小売が盛んであった。
そのため商店街の歴史は1619(元和5)年の明石城築城当時から始まっており、築城とともに行われた城下町の町割り(土地利用計画)には宮本武蔵*2が関与したとされている。これは町の東部を商人と職人の地区、中央部を東魚町・西魚町など商業と港湾の地区、西部は樽屋町、材木町とその海岸部には回船業者や船大工などと漁民が住む地区として町割りがされ、その東魚町・西魚町にあつた市場が現在の魚の棚商店街の原型*3となっている。
魚の棚(「うおんたな」)の由来は、江戸時代に魚商人が軒先に大きな板を棚のように並べ、鮮度を保つために並べた魚に水を流していた様子からきている。かつては各地にこのような通称があったが、現在も残るのはここと高知市はりまや橋町の2箇所のみであり、400年間続いてきた歴史の重みがある商店街と言えよう。(明石魚の棚商店街WEBサイト参照)
明石市は明石海峡を挟む大阪湾、播磨灘に面し、強い潮流と複雑な地形により沿岸漁業が盛んである。その産物として特産の鯛、蛸を始め、イカナゴ、アナゴ等が水揚げされる他、ノリ、ワカメなどの養殖、鯛や平目、車海老などの栽培漁業も行われている。そのため古くから海産物*1の問屋や小売が盛んであった。
そのため商店街の歴史は1619(元和5)年の明石城築城当時から始まっており、築城とともに行われた城下町の町割り(土地利用計画)には宮本武蔵*2が関与したとされている。これは町の東部を商人と職人の地区、中央部を東魚町・西魚町など商業と港湾の地区、西部は樽屋町、材木町とその海岸部には回船業者や船大工などと漁民が住む地区として町割りがされ、その東魚町・西魚町にあつた市場が現在の魚の棚商店街の原型*3となっている。
魚の棚(「うおんたな」)の由来は、江戸時代に魚商人が軒先に大きな板を棚のように並べ、鮮度を保つために並べた魚に水を流していた様子からきている。かつては各地にこのような通称があったが、現在も残るのはここと高知市はりまや橋町の2箇所のみであり、400年間続いてきた歴史の重みがある商店街と言えよう。(明石魚の棚商店街WEBサイト参照)

みどころ
明石駅南口から駅ビルを通り抜けて歩道橋で国道2号線を越えるとアーケードに入る。50mほどで東西250mに広がるメインストリートに出る。並んでいる店舗は鮮魚店と海産物店が多く、これらの店舗は間口が狭く奥行きが長い昔の町家形態がそのまま残っている。
鮮魚店には明石浦漁港・林崎漁港から水揚げされる特産の明石鯛や明石蛸を始めとした地場の魚、海産物店では特産の明石海苔や焼き穴子、イカナゴの釘煮、蒲鉾やちくわ、干物等が販売されている。飲食店では買物ついでに立ち寄れる郷土の軽食として、明石焼(玉子焼)*4を出す店も多く、これはテイクアウトも可能となっている。また、食べ歩き用のタコせんべい等を並べている露店もある。
このように地元の台所として生活に根付いた商店街となっているので、賑わう時間帯は午後から夕方であり、午後4時を過ぎると売れ切れ、閉店となる店舗も多い。午後から夕方に訪れれば地元の人々と一緒になって買物や軽食が楽しめるであろう。
また、アーケードの中心部には「魚の駅」と名付けられたインフォメーションセンターと休憩所がある。その近くある横町の奥には商売繁盛を願ってと思われる厳島弁天神社が祀られているので覗いてみるのも良いだろう。
なお、明石港までは徒歩10分、駅の北側の明石城までは徒歩15分程度、全国的に知られている標準時子午線(東経135°)が通っている明石市立天文科学館まで1.3km、20分であり、いずれもこの商店街を起点として散策できる範囲にある。
鮮魚店には明石浦漁港・林崎漁港から水揚げされる特産の明石鯛や明石蛸を始めとした地場の魚、海産物店では特産の明石海苔や焼き穴子、イカナゴの釘煮、蒲鉾やちくわ、干物等が販売されている。飲食店では買物ついでに立ち寄れる郷土の軽食として、明石焼(玉子焼)*4を出す店も多く、これはテイクアウトも可能となっている。また、食べ歩き用のタコせんべい等を並べている露店もある。
このように地元の台所として生活に根付いた商店街となっているので、賑わう時間帯は午後から夕方であり、午後4時を過ぎると売れ切れ、閉店となる店舗も多い。午後から夕方に訪れれば地元の人々と一緒になって買物や軽食が楽しめるであろう。
また、アーケードの中心部には「魚の駅」と名付けられたインフォメーションセンターと休憩所がある。その近くある横町の奥には商売繁盛を願ってと思われる厳島弁天神社が祀られているので覗いてみるのも良いだろう。
なお、明石港までは徒歩10分、駅の北側の明石城までは徒歩15分程度、全国的に知られている標準時子午線(東経135°)が通っている明石市立天文科学館まで1.3km、20分であり、いずれもこの商店街を起点として散策できる範囲にある。

補足情報
*1 明石の海産物:目前の播磨灘から揚がる真蛸(明石タコ)といかなご、真鯛(明石タイ)が全国的に知られている。また、明石海苔の収穫量は全国でもトップクラスである。
*2 宮本武蔵:推定1584~1645年。剣豪として知られているが、姫路藩主本多忠刻の厚誼(こうぎ)を得て、姫路・明石の城や寺院で造園に関わった他、明石藩の町割(都市計画)を行った。明石の城下町の町割りは享保年間(1716〜1736年)に成立した明石記」によると、「宮本武蔵ト云士町割有之ト云町並裏行十六間也」と記載されており、小笠原忠政(後の忠真)が城下町の工事に着手した1619(元和5)年に宮本武蔵が町割りに関わったものと考えられている。
*3 元文年間(1736~1741年)の店舗数は鮮魚店56軒、塩干物店50軒があり、東魚町には鮮魚と練り製品の店、西魚町には塩干ものの問屋と小売りが並んでいたとされる。
*4 玉子焼(明石焼):鶏卵と出汁に地元特産のタコを材料に調製される軽食で、大阪のたこ焼のルーツとなったとも言われている。地元では「玉子焼」と呼ばれているが、地元以外では一般的な玉子焼と区別するために「明石焼」とも呼ばれる。
*2 宮本武蔵:推定1584~1645年。剣豪として知られているが、姫路藩主本多忠刻の厚誼(こうぎ)を得て、姫路・明石の城や寺院で造園に関わった他、明石藩の町割(都市計画)を行った。明石の城下町の町割りは享保年間(1716〜1736年)に成立した明石記」によると、「宮本武蔵ト云士町割有之ト云町並裏行十六間也」と記載されており、小笠原忠政(後の忠真)が城下町の工事に着手した1619(元和5)年に宮本武蔵が町割りに関わったものと考えられている。
*3 元文年間(1736~1741年)の店舗数は鮮魚店56軒、塩干物店50軒があり、東魚町には鮮魚と練り製品の店、西魚町には塩干ものの問屋と小売りが並んでいたとされる。
*4 玉子焼(明石焼):鶏卵と出汁に地元特産のタコを材料に調製される軽食で、大阪のたこ焼のルーツとなったとも言われている。地元では「玉子焼」と呼ばれているが、地元以外では一般的な玉子焼と区別するために「明石焼」とも呼ばれる。
関連リンク | 明石魚の棚(魚の棚商店街事務所)(WEBサイト) |
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参考文献 | 明石魚の棚(魚の棚商店街事務所)(WEBサイト) |
2025年03月現在
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