明石城
JR西・山陽電鉄の明石駅北口から徒歩5分に位置し、明石城の内堀から北側の54万8,000m2が明石公園となっている。明石城址はその中の本丸にある2つの櫓(やぐら)と、二の丸・東の丸・稲荷曲輪を囲む石垣、及び正門が保存されている。
この城は1619年(元和5)年に初代明石藩主小笠原忠政(後の忠真)によって築かれた。小笠原忠政は徳川家と姻戚関係にあり、明石城は西国の外様大名に備える役割を担っていた。江戸時代に築城されたことから当初より天守閣は築かれず、4箇所の櫓(やぐら)の一部がその代用となっていた。幕末には明石海峡を押さえる明石藩には外国船からの防衛として砲台が築かれた反面、明石城の役割は大きく低下した。そして、明治維新により廃城が決まったが旧明石藩士による櫓解体反対運動を経て、1883(明治16)年に公園地として残されることとなり、1918(大正7)年にほぼ全域が兵庫県立明石公園となった。
明石城のシンボルであった櫓は正門側の巽櫓(たつみやぐら)・坤櫓(ひつじさるやぐら)のみが残されている。この2つの櫓は日本に12基しか現存していない三重櫓として、1957(昭和32)年に国の重要文化財に指定されている。また、本丸南側の石垣は東西380m、高さ約20mの石垣で、櫓台の出角部分はノミで稜線を尖らせる「江戸切」という手法が多く用いられている。このような石垣の保存状態と三の丸跡全体を囲む堀割が評価され、2004年(平成16)年には城跡全体が国の史跡に指定されている。城の正門から入った三の丸跡は、本丸北側に残された桜堀・薬研堀などとともに春の新緑と桜、照葉樹などが美しい明石公園となっている。このうち、三の丸跡の庭園は宮本武蔵*1が関わったことから武蔵の庭園と名付けられている。
この城は1619年(元和5)年に初代明石藩主小笠原忠政(後の忠真)によって築かれた。小笠原忠政は徳川家と姻戚関係にあり、明石城は西国の外様大名に備える役割を担っていた。江戸時代に築城されたことから当初より天守閣は築かれず、4箇所の櫓(やぐら)の一部がその代用となっていた。幕末には明石海峡を押さえる明石藩には外国船からの防衛として砲台が築かれた反面、明石城の役割は大きく低下した。そして、明治維新により廃城が決まったが旧明石藩士による櫓解体反対運動を経て、1883(明治16)年に公園地として残されることとなり、1918(大正7)年にほぼ全域が兵庫県立明石公園となった。
明石城のシンボルであった櫓は正門側の巽櫓(たつみやぐら)・坤櫓(ひつじさるやぐら)のみが残されている。この2つの櫓は日本に12基しか現存していない三重櫓として、1957(昭和32)年に国の重要文化財に指定されている。また、本丸南側の石垣は東西380m、高さ約20mの石垣で、櫓台の出角部分はノミで稜線を尖らせる「江戸切」という手法が多く用いられている。このような石垣の保存状態と三の丸跡全体を囲む堀割が評価され、2004年(平成16)年には城跡全体が国の史跡に指定されている。城の正門から入った三の丸跡は、本丸北側に残された桜堀・薬研堀などとともに春の新緑と桜、照葉樹などが美しい明石公園となっている。このうち、三の丸跡の庭園は宮本武蔵*1が関わったことから武蔵の庭園と名付けられている。

みどころ
明石駅北口から出ると、正面に広がる堀割と正門により、明石城の大きさを感じることができる。かつては太鼓門橋*2と言われていた橋で堀を渡ると、直角に曲がる枡形虎口がある。時を告げる大太鼓があった能ノ門を過ぎると三の丸跡の園地に出る。ここからは正面に幅380m、高さ20mで東西に伸びる石垣とその両端を押さえる2つの三重櫓を一望することができる。この端正な姿が天守閣を持つ城とは異なる明石城の特徴である。
本丸に登ると南東端に高さ12.5mの3重の櫓である巽櫓(たつみやぐら)がある。その対となる南西端には天守閣の代用とされていた高さ13.3mの坤櫓(ひつじさるやぐら)がある。この2つの櫓は春・秋の週末と祝日に限り内部が特別公開されている。
坤櫓の西側には展望台があり、かつての城下町、明石市の街並みとその背後にそびえる明石海峡大橋を眺望することができる。さらにビルの谷間には淡路島の島影を見ることができ、海運の要所を監視していた明石城の役割が偲ばれる。その他、公園として花木が植えられた本丸内には計画のみに終わった天守台*3と、薬研堀と桜堀という天守の北側を守る堀が残っている。
また、明石城を観光した後は明石港の史跡を見ることをお薦めする。1657(明暦3)年頃に5代藩主松平忠国によって造られたという旧波門崎燈籠堂(明石港旧灯台 明石市指定文化財)が保存されている。現存する日本の旧灯台のうち設置年代は2番目に古いものである。
本丸に登ると南東端に高さ12.5mの3重の櫓である巽櫓(たつみやぐら)がある。その対となる南西端には天守閣の代用とされていた高さ13.3mの坤櫓(ひつじさるやぐら)がある。この2つの櫓は春・秋の週末と祝日に限り内部が特別公開されている。
坤櫓の西側には展望台があり、かつての城下町、明石市の街並みとその背後にそびえる明石海峡大橋を眺望することができる。さらにビルの谷間には淡路島の島影を見ることができ、海運の要所を監視していた明石城の役割が偲ばれる。その他、公園として花木が植えられた本丸内には計画のみに終わった天守台*3と、薬研堀と桜堀という天守の北側を守る堀が残っている。
また、明石城を観光した後は明石港の史跡を見ることをお薦めする。1657(明暦3)年頃に5代藩主松平忠国によって造られたという旧波門崎燈籠堂(明石港旧灯台 明石市指定文化財)が保存されている。現存する日本の旧灯台のうち設置年代は2番目に古いものである。

補足情報
*1 宮本武蔵:推定1584~1645年。剣豪として知られているが、姫路藩主本多忠刻の厚誼(こうぎ)を得て、姫路・明石の城や寺院で造園に関わった他、明石藩の町割(都市計画)を行った。明石藩初代藩主の小笠原家に伝わる「清流話」の記録によると、現在の明石公園陸上競技場には、かつて宮本武蔵が作庭した樹木屋敷(城主の遊興場所)があったとされる。明石の城下町の町割りは「播磨鑑、明石記」に伝えられており、小笠原忠政(後の忠真)が城下町の工事に着手した1619(元和5)年に宮本武蔵が町割りに関わったものと考えられている。
*2 太鼓門跡:明石城の正門から内堀の南はもともと武家屋敷が並び、その南約300mにあった外堀と追手門により城下町に繋がっていた。現在は内堀の直ぐ外を鉄道が横切り、外堀周辺は国道2号線が横切っている。
*3 天守台:東西25m、南北20m。これは熊本城と同規模、5重の天守が建築可能な大きさである。天守が築かれなかった理由については明確な文献は無いものの、江戸時代の築城であることから、近世に発達した大砲の標的になりやすいためだったのではと考えられる。
*2 太鼓門跡:明石城の正門から内堀の南はもともと武家屋敷が並び、その南約300mにあった外堀と追手門により城下町に繋がっていた。現在は内堀の直ぐ外を鉄道が横切り、外堀周辺は国道2号線が横切っている。
*3 天守台:東西25m、南北20m。これは熊本城と同規模、5重の天守が建築可能な大きさである。天守が築かれなかった理由については明確な文献は無いものの、江戸時代の築城であることから、近世に発達した大砲の標的になりやすいためだったのではと考えられる。
関連リンク | 明石公園(公益財団法人兵庫県園芸・公園協会)(WEBサイト) |
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参考文献 |
明石公園(公益財団法人兵庫県園芸・公園協会)(WEBサイト) 一般社団法人明石観光協会(WEBサイト) 「城と明石の400年」明石市文化振興課 2021年 |
2025年03月現在
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