聖護院
地下鉄東西線東山駅から徒歩15分、京阪鴨東線神宮丸太町駅から徒歩10分。市バス熊野神社前からは徒歩5分。平安神宮の北方にある本山修験宗の総本山。応仁・文明の乱などの火災でたびたび移転し、1676(延宝4)年に現在地に再建された。本尊は不動明王。平安時代後期、1090(寛治4)年白河上皇が熊野三山に参詣の折、増誉(ぞうよ)大僧正が先達を勤めた功績によって、熊野三山検校職(けんぎょうしき)に任命され、のちに「聖体護持」という言葉より2字とった「聖護院」の号を上皇より賜った。鎌倉末ころからは本山派修験道*を統轄するようになる。その後、後白河天皇の皇子の入寺以降明治維新まで37代のうち、25代は皇室より、12代は摂家より入寺、宮門跡として高い格式を誇った。御所が火災に遭った1788(天明8)年から約3年は光格天皇の、同じく1854(安政元)年の火災では孝明天皇の仮御所となっている。江戸幕末には、寺領の一部を京都守護職である会津藩に貸し出し、練兵場が置かれた。
境内には御所から移したという書院をはじめ、宸殿・本堂・庫裏・長屋門などが立ち並ぶ。毎年1月半ば、山伏姿で法螺貝を吹き鳴らして市中を回り祈願・托鉢する寒中修行は、冬の京都の風物詩の一つ。
境内には御所から移したという書院をはじめ、宸殿・本堂・庫裏・長屋門などが立ち並ぶ。毎年1月半ば、山伏姿で法螺貝を吹き鳴らして市中を回り祈願・托鉢する寒中修行は、冬の京都の風物詩の一つ。

みどころ
表門を入ると右前方に宸殿の大玄関が見え、建物内は孔雀の間、太公望の間、波の間など、部屋数は15を超え、狩野永納*、益信*らによる200面近い障壁画に飾られている。その奥の書院*は国指定重要文化財。東側の本堂に祀る本尊不動明王像、智証大師円珍像も国指定重要文化財である。寺務所棟2階仏間にも不動明王、阿弥陀如来像を祀っている。本堂と事務所棟2階以外は、秋の特別拝観などを除き通常非公開。
なお、近くの熊野神社には梅原猛揮毫の「八ツ橋発祥之地*」の石碑がある。
なお、近くの熊野神社には梅原猛揮毫の「八ツ橋発祥之地*」の石碑がある。

補足情報
*本山派修験道:天台系の修験道を指す。真言系の修験道は当山派と呼び、醍醐寺を中心とする。修験道は山へ籠って厳しい修行を行うことで悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰の一つで、日本独特の宗教でもある。修験道の実践者は修験者または山伏と呼ばれ、飛鳥時代に役小角(役行者)を開祖とする。
*狩野永納:1631~1697年。京都で活躍した狩野山楽の孫。
*狩野益信:1625~1694年。江戸で活躍した狩野探幽の養子。駿河台狩野家の祖。
*書院:御所の女院御殿を移したもので、結び文の釘隠しなど繊細な意匠の建物は江戸時代初期書院の好例。花頭窓には当時非常に高価だったガラスを嵌めた障子が使用されている。嵌っているガラスの一つは建設当初からのもの。透明度は高いが割れやすいという。
*八ツ橋発祥之地:寺領内に聖護院村があり、このあたりはかつて聖護院の森と呼ばれ、筝曲をきわめた八橋検校の墓のある黒谷への道が通っていた。検校を偲んで琴のように反った短冊形の菓子を「八ツ橋」と名付けてこの地で売ったのが、京名物八ツ橋の始まりという。聖護院蕪(かぶら)や聖護院大根も聖護院村で生まれた。
*狩野永納:1631~1697年。京都で活躍した狩野山楽の孫。
*狩野益信:1625~1694年。江戸で活躍した狩野探幽の養子。駿河台狩野家の祖。
*書院:御所の女院御殿を移したもので、結び文の釘隠しなど繊細な意匠の建物は江戸時代初期書院の好例。花頭窓には当時非常に高価だったガラスを嵌めた障子が使用されている。嵌っているガラスの一つは建設当初からのもの。透明度は高いが割れやすいという。
*八ツ橋発祥之地:寺領内に聖護院村があり、このあたりはかつて聖護院の森と呼ばれ、筝曲をきわめた八橋検校の墓のある黒谷への道が通っていた。検校を偲んで琴のように反った短冊形の菓子を「八ツ橋」と名付けてこの地で売ったのが、京名物八ツ橋の始まりという。聖護院蕪(かぶら)や聖護院大根も聖護院村で生まれた。
関連リンク | 聖護院門跡(WEBサイト) |
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参考文献 | 聖護院門跡(WEBサイト) |
2025年05月現在
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