賀茂別雷神社(上賀茂神社)
賀茂別雷神社(上賀茂神社) 内の資源
世界文化遺産。地下鉄烏丸線北山駅から徒歩15分、市バスは上賀茂神社前からすぐ、または上賀茂御薗(みその)橋から徒歩5分。賀茂川に架かる御薗橋の東に鎮座し、下鴨神社とともに賀茂社と呼ばれ、京都でもっとも古い神社の一つ。御祭神は賀茂別雷大神(わけいかづちのおおかみ)。雷神を祀るところから、厄除けの信仰を集めている。山城国の一宮でもある。
創建は明らかではないが、現在の社殿の礎は677(天武天皇6)年とされる。『続日本紀』によれば、698(文武天皇2)年に賀茂祭における会衆騎射を禁じた記事があり、天平年間(729~749)にかけて3度も騎射や会衆の禁止、あるいは国司の臨検などが指示されており、奈良時代初期にはすでに賀茂社の祭礼が大規模なものになっていたことがわかる。奈良時代後期には上下2社に分立していたらしい。平安遷都後は王城鎮護の神として伊勢神宮に次ぐ崇敬を受け、810(弘仁元)年、伊勢神宮の斎宮にならい斎院(さいいん)の制が施かれ、皇女が斎王となった。21年ごとに社殿を建て替える式年遷宮の制が1036(長元9)年定められ、1863(文久3)年までに32度の造営が行われた。源頼朝をはじめ、織田信長・豊臣秀吉からも崇敬を受けていた。
社域は約66万4,000m2と広大。一の鳥居から二の鳥居にかけて芝生が広がり、ベニシダレザクラ「斎王桜」などの名桜がある。右手の樹間を「ならの小川*」が流れ下る。二の鳥居の内側に立ち並ぶ社殿の多くは、1628(寛永5)年と1863(文久3)年に造営され、国宝の本殿・権殿*ほか、41棟が国の重要文化財に指定されている。
毎年5月5日には競馬(くらべうま)神事*、同じく15日には葵祭*と祭りの終わりを飾る走馬(そうま)の儀*、9月9日には烏相撲*が行われる。境内の南、「ならの小川」は明神川と名を変え、流れ沿いには神官が住んだ社家が並ぶ社家町*があり、国の重要伝統的建造物群保存地区となっている。
創建は明らかではないが、現在の社殿の礎は677(天武天皇6)年とされる。『続日本紀』によれば、698(文武天皇2)年に賀茂祭における会衆騎射を禁じた記事があり、天平年間(729~749)にかけて3度も騎射や会衆の禁止、あるいは国司の臨検などが指示されており、奈良時代初期にはすでに賀茂社の祭礼が大規模なものになっていたことがわかる。奈良時代後期には上下2社に分立していたらしい。平安遷都後は王城鎮護の神として伊勢神宮に次ぐ崇敬を受け、810(弘仁元)年、伊勢神宮の斎宮にならい斎院(さいいん)の制が施かれ、皇女が斎王となった。21年ごとに社殿を建て替える式年遷宮の制が1036(長元9)年定められ、1863(文久3)年までに32度の造営が行われた。源頼朝をはじめ、織田信長・豊臣秀吉からも崇敬を受けていた。
社域は約66万4,000m2と広大。一の鳥居から二の鳥居にかけて芝生が広がり、ベニシダレザクラ「斎王桜」などの名桜がある。右手の樹間を「ならの小川*」が流れ下る。二の鳥居の内側に立ち並ぶ社殿の多くは、1628(寛永5)年と1863(文久3)年に造営され、国宝の本殿・権殿*ほか、41棟が国の重要文化財に指定されている。
毎年5月5日には競馬(くらべうま)神事*、同じく15日には葵祭*と祭りの終わりを飾る走馬(そうま)の儀*、9月9日には烏相撲*が行われる。境内の南、「ならの小川」は明神川と名を変え、流れ沿いには神官が住んだ社家が並ぶ社家町*があり、国の重要伝統的建造物群保存地区となっている。

みどころ
二の鳥居の手前には神馬舎*があり、鳥居をくぐると目の前に細殿が立つ。細殿前の2つの立砂(盛砂)は賀茂別雷大神が降臨されたという神社北西の神山(こうやま)を表す。神山が一つであるのに、立砂は左右一対となっている。これは、世の中はすべて陰と陽からなるという陰陽思想に基づくもので、右の砂の頂には陰の数である2本の松の葉が、左には陽の3本の松の葉が立てられている。烏相撲はこの前で催される。社殿群の左から流れる御手洗(みたらし)川、右から流れる御物忌(おものい)川が細殿後方で合流し、「ならの小川」となる。朱塗りの楼門の右手前には縁結び・安産祈願の片岡社(片山御子神社)。御物忌川を渡って楼門を入ると、中門の塀の中に本殿、権殿が垣間見える。境外摂社の大田神社*はカキツバタで知られる。

補足情報
*ならの小川:藤原家隆の和歌「風そよぐならの小川の夕暮れは みそぎぞ夏のしるしなりける」は『百人一首』でなじみ深い。歌碑が「ならの小川」のそばにある。
*本殿・権殿:ともに1863(文久3)年の造替。三間社流造、檜皮葺。権殿は本殿を修理する際などに神様がお遷りになる仮の社殿で、調度品まで本殿に準じている。特別参拝を申し込むと権殿近くで参拝できる。
*競馬神事:1093(寛治7)年以来の伝統をもつ。一の鳥居から二の鳥居への参道左手の芝生で5月5日午後2時から。舞楽装束の2人の乗尻(騎手)が馬を競わせる。
*葵祭:祭りの行列は御薗橋を渡って一の鳥居をくぐり、中央の参道を進む。
*走馬の儀:馬に乗って一の鳥居から二の鳥居まで参道を疾走する。
*烏相撲:祭神の祖父・賀茂建角身命が八咫(やた)烏に化身して神武天皇を先導したとの伝えに基づいて、子どもたちの相撲が奉納される。取組前に、刀禰という役の人がカーカーカーと烏の鳴きまねをする。
*社家町:明神川に沿って土塀を連ねた社家は、切妻造、平家建、妻入を基本とし、家ごとに土橋を架け、川の水を庭園に引き込んでいる。原形を留める社家は減っているが、西村家別邸が公開されている。
*神馬舎:神馬は白馬で「神山号」という。日曜・祝日と大きな祭典がある日の9時半~15時頃におり、ニンジンをやって親しく接することができる。それ以外の日は、近くの京都産業大学馬術部の厩舎におり、部員たちが世話をしている。
*大田神社:古くから「大田の沢のかきつばた」で名高い。御祭神天鈿女命(あめのうずめのみこと)は芸能の神。
*本殿・権殿:ともに1863(文久3)年の造替。三間社流造、檜皮葺。権殿は本殿を修理する際などに神様がお遷りになる仮の社殿で、調度品まで本殿に準じている。特別参拝を申し込むと権殿近くで参拝できる。
*競馬神事:1093(寛治7)年以来の伝統をもつ。一の鳥居から二の鳥居への参道左手の芝生で5月5日午後2時から。舞楽装束の2人の乗尻(騎手)が馬を競わせる。
*葵祭:祭りの行列は御薗橋を渡って一の鳥居をくぐり、中央の参道を進む。
*走馬の儀:馬に乗って一の鳥居から二の鳥居まで参道を疾走する。
*烏相撲:祭神の祖父・賀茂建角身命が八咫(やた)烏に化身して神武天皇を先導したとの伝えに基づいて、子どもたちの相撲が奉納される。取組前に、刀禰という役の人がカーカーカーと烏の鳴きまねをする。
*社家町:明神川に沿って土塀を連ねた社家は、切妻造、平家建、妻入を基本とし、家ごとに土橋を架け、川の水を庭園に引き込んでいる。原形を留める社家は減っているが、西村家別邸が公開されている。
*神馬舎:神馬は白馬で「神山号」という。日曜・祝日と大きな祭典がある日の9時半~15時頃におり、ニンジンをやって親しく接することができる。それ以外の日は、近くの京都産業大学馬術部の厩舎におり、部員たちが世話をしている。
*大田神社:古くから「大田の沢のかきつばた」で名高い。御祭神天鈿女命(あめのうずめのみこと)は芸能の神。
関連リンク | 賀茂別雷神社(WEBサイト) |
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参考文献 |
賀茂別雷神社(WEBサイト) 「京都府の歴史散歩 上」山川出版社 |
2025年05月現在
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