勝山左義長まつり
地元では「さぎっちょ」と呼ぶ。左義長*は古く平安朝の頃から正月に行われた行事のひとつで、全国で行われる小正月(1月15日)火祭りである。
勝山左義長は、1691(元禄4)年、小笠原公入封以来300年余の歴史を誇り、2月の最終土日、各町内に数基の櫓を立て、赤い長襦袢を着用し太鼓をたたきながら、三味線、笛、鉦の囃子に乗って「蝶よ花よ、花よのネンネ…」の音頭に浮かれる様は、全国で勝山だけである。人びとはこれを奇祭という。
祭りに賑わいを添えるために、各町の道路上4mくらいの高さに細縄を張り渡し、白青赤の三色の長さ1mの短冊を吊る。左義長櫓本体は大木の幅4m、高さ6mくらいで、最も古い櫓は1883(明治16)年に作られている。櫓の2階舞台で左義長太鼓が叩かれる。御神体は歳徳大明神の札がつけられ道路中央に立てられる。「作り物」はその年の干支に因んだ作品が多く、生活用具を素材に「仁輪加」的に作り上げ、書き流しを添える。街頭に絵灯ろうが立てられる。
2月最終の日曜の午後8時ころ、ご神体が一斉に点火され燃えさかる中、祭りは終わりとなる。
勝山左義長は、1691(元禄4)年、小笠原公入封以来300年余の歴史を誇り、2月の最終土日、各町内に数基の櫓を立て、赤い長襦袢を着用し太鼓をたたきながら、三味線、笛、鉦の囃子に乗って「蝶よ花よ、花よのネンネ…」の音頭に浮かれる様は、全国で勝山だけである。人びとはこれを奇祭という。
祭りに賑わいを添えるために、各町の道路上4mくらいの高さに細縄を張り渡し、白青赤の三色の長さ1mの短冊を吊る。左義長櫓本体は大木の幅4m、高さ6mくらいで、最も古い櫓は1883(明治16)年に作られている。櫓の2階舞台で左義長太鼓が叩かれる。御神体は歳徳大明神の札がつけられ道路中央に立てられる。「作り物」はその年の干支に因んだ作品が多く、生活用具を素材に「仁輪加」的に作り上げ、書き流しを添える。街頭に絵灯ろうが立てられる。
2月最終の日曜の午後8時ころ、ご神体が一斉に点火され燃えさかる中、祭りは終わりとなる。
みどころ
どんど焼きとよばれるものは、コミュニティレベルで全国各地で行われていたが、室内で繭玉や玄関や門に門松を飾らなくなったりして、行われなくなっている。しかし、規模の大きい左義長は、年中行事として市町村規模で存続しており、その中でも、勝山の左義長*は、櫓の大きさもさることながら、櫓の上で叩く太鼓に合わせ、三味線、笛、鉦の囃子にのって、踊り手が音頭に乗って浮かれるのは、全国でも珍しい。(溝尾 良隆)
補足情報
*左義長の語源:いくつかあり、「三毬杖(さぎちょう)」からと言われる。三毬打とは、ただ簡単に三本の竹または木を結んで三脚に仕立てたもの。ほかに、朝廷では毬を蹴って祝ったとも伝えられている。これをサギチョウと呼び、地方ではサギッチョウとも呼ばれている。一説には「散鬼打」つまり鬼を追い散らし邪気を払う行事から訛ったのではないかともいわれる。「三毬打」がいつ頃から左義長と書くようになったかは定かではない。所によりドント、トンド、ドンド焼きと呼ぶが、これは囃子言葉である。
*勝山の左義長について:松飾りは中央に杉の生木を立てて「心」とし、それに多くの竹を結び付けた正月の松飾りやしめ縄などを取り合わせて、四角錘のものを立て、頂上に白扇を持って飛鳥のごとく御幣を組む。このご神体を町中に立て、これを祭りの最終日に九頭竜河原に移し、藁をつみ重ね、年番の手によって火を点じる。青竹の破裂する音の激しさで去りし年の災厄を払い、炎の燃え上がる高さで新春を寿ぎ新しき年の豊作を祈念する火祭りである。竹の先に餅を差し「ドント」の火であぶりそれを食べれば無病息災。
*勝山の左義長について:松飾りは中央に杉の生木を立てて「心」とし、それに多くの竹を結び付けた正月の松飾りやしめ縄などを取り合わせて、四角錘のものを立て、頂上に白扇を持って飛鳥のごとく御幣を組む。このご神体を町中に立て、これを祭りの最終日に九頭竜河原に移し、藁をつみ重ね、年番の手によって火を点じる。青竹の破裂する音の激しさで去りし年の災厄を払い、炎の燃え上がる高さで新春を寿ぎ新しき年の豊作を祈念する火祭りである。竹の先に餅を差し「ドント」の火であぶりそれを食べれば無病息災。
関連リンク | 勝山左義長(勝山市)(WEBサイト) |
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参考文献 |
勝山左義長(勝山市)(WEBサイト) パンフレット「左義長まつり」勝山市・公益社団法人勝山市観光協会 丸屋仁志編『勝山歳時記』1994年2月 |
2022年06月現在
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