旧前田家本邸きゅうまえだけほんてい

京王線駒場東大前駅から徒歩8分の駒場公園内にある、旧加賀藩主前田家16代当主前田利為(としなり)侯爵*1の邸宅である。明治維新後の前田家邸宅は、1907(明治40)年に文京区本郷の加賀藩上屋敷跡に建てられた本郷西洋館*2だった。本郷西洋館はルネサンス調であったが、英国駐在が長く狩猟が趣味であった前田利為の意向に沿って、英国のカントリーハウス*2を模した重厚な意匠だった。しかし、関東大震災後に東京帝国大学との敷地交換により、駒場農学校(後の東京帝国大学農学部)があった現在地に移転した。なお、この地も元は加賀藩の下屋敷があった場所である。
 移転後、1929(昭和4)年に洋館が、翌年に和館が竣工した。洋館は鉄筋コンクリート2階建て、建築面積978m2(延床面積2,930m2)の建物で、移転前の本郷西洋館を上回る規模*3であった。洋館が宮内省内匠寮工務課技師の高橋貞太郎、和館が帝室技芸員の佐々木岩次郎の設計と言われている。当時は東洋一の大邸宅と言われ、現存する昭和初期の洋館のなかでも最大級のものである。戦後は米軍司令官の官邸として使われた後、1957(昭和32)年に返還された。1967(昭和42)年~2002(平成14)年まで日本近代文学博物館となっていたが、2013(平成25)年に旧前田家本邸として国の重要文化財(建物)に指定され、修復整備が行われてきた。
 この邸宅は、前田利為の自宅であると同時に、外国賓客をもてなす迎賓館としての役割を担っていた。さらに外国賓客に日本文化を伝える役割を持つ木造2階建ての和館は、渡り廊下で洋館とつながっていた。邸宅に付随して、園遊会が行える広大な芝生広場、和館から眺められる回遊式の日本庭園のほか、洋館裏手には温室や自家菜園、馬場と厩舎、100人以上いたとされる使用人の諸室や事務所、車庫等があり、周辺の鬱蒼とした武蔵野の森林まで入れると4万m2の広大な敷地であった。敷地は1967(昭和42)年に駒場公園となり、園内には日本近代文学館、隣接して日本民藝館が開設されている。
#

みどころ

現在は公園入口となっている正門から近づくと車寄せとバルコニー、尖塔を持つ建物正面が迎えてくれる。外壁の煉瓦のように見える引っ掻き傷を付けたスクラッチタイルは、当時の帝国ホテルや東京帝国大学等の古い建物に共通する仕様である。外壁の要所では彫刻を施した大華石(たいかせき。石川県小松の特産)がアクセントとなっている。
 賓客のもてなしの場である建物1階には、ステンドグラスと2階への大階段を持つホールがある。ホールからは大小の客室(応接間)と大食堂に続き、大理石のマントルピースを備えた大食堂は26人までの晩餐会ができたと言われている。また地下の厨房には初期のダムウェータ(食事を上げるリフト)の跡も見受けられる。2階から上は家族の空間で、バルコニーに面した家族それぞれの寝室と当主の書斎、さらにサービスを受け持っていた執事や女中達の部屋も見学できる。3階は見学できないが子供部屋、遊戯室、屋根裏の女中室などがあったとされている。
 このように旧前田家本邸は英国文化を取り入れた日本の洋館の代表例であるとともに、英国貴族の生活様式と文化を知ることができる邸宅である。2階の展示室には前田家の歴史や邸宅の歴史を著す資料室がある他、ボランティアガイドも行われている。
#

補足情報

*1.前田利為(1885-1942)は日本の華族、陸軍軍人。旧加賀藩前田家第16代当主。陸軍将校としてドイツに留学後、1927年から1930年まで駐英大使館附武官となる。1942(昭和17)年、陸軍司令官としてボルネオに渡る途中、搭乗機が遭難して事故死した。
*2.英国貴族・郷士(ジェントリー)が自己の荘園に持っていた領主館(マナーハウス)が16世紀以降に発達して、王族や他の貴族達を迎える迎賓館としての役割も持つようになった大邸宅。
*3.建築面積978m2は移転前の本郷西洋館(1907年(明治40)年竣工)の建築面積706m2よりも大きく、また、1896(明治29)年に建てられた旧岩崎邸(同532m2)の2倍近い規模である。昭和初期の重要文化財指定の洋館としては、旧朝香宮邸本館(東京都庭園美術館)の延床床面積2,100m2を上回っている。