歌舞伎座かぶきざ

東京メトロ・都営地下鉄の東銀座駅3番出口は、歌舞伎座の地下2階にある土産物と歌舞伎グッズを扱う売店や飲食店が並ぶ「木挽町広場」に直結している。400年以上の歴史を持つ日本の伝統芸能を体感できる劇場。歌舞伎は、江戸の初期、京都において出雲の阿国(おくに)が、当時の流行を取り入れ、男装して奇抜に踊る「かぶき踊り」を演じて人気を博したことにはじまる。艶っぽい踊りは京の遊女らの間で流行したが、風紀の乱れを理由に禁じられ、のちに成人男子中心となり、現在の男優だけで演じる日本の伝統芸能である歌舞伎の基礎となった。17世紀後半、元禄の頃、歌舞伎は演劇として大きく発展する。江戸では、勇壮な武士が派手に立ち回る初代市川團十郎が、上方では物腰柔らかな初代坂田藤十郎が人気を博す*。やがて芝居小屋で花道や回り舞台などが発明される。
 初代歌舞伎座は、福地桜痴(ふくちおうち・本名源一郎)らによって歌舞伎の殿堂として1889(明治22)年にこけら落しを行った。間口15間、奥行30間、新式電燈の照明付きの3階建ての大劇場で、立ち見を含めると2,000人余りを収容できた。1914(大正3)年、歌舞伎座は松竹*の直営になる。松竹の創業者大谷竹次郎は他の興業会社と提携し、豪華な顔ぶれを揃えて、新たな黄金時代を築くことに成功する。しかし、1921(大正10)年、漏電による火災、続いて1923(大正12)年、関東大震災で罹災、そして戦災という悲劇に会う。1951(昭和26)年に建設された4代目が長らく使用されてきたが、2000年代に入ると歌舞伎座も老朽化が目立つようになり、また耐震性の問題や段差解消の必要性なども指摘されるようになった。そこで2005年(平成17年)から建て替えの検討に入った。「建て替え+超高層オフィス棟」という草案もあったが、国の登録有形文化財であり、銀座の主要なランドマークとして親しまれていることから、保存の要望も出された。それらを勘案し、2010年(平成22年)4月に閉場し、2013(平成25)年2月に、オフィスビルを併設した歌舞伎座の建て替えが完了した。新しい歌舞伎座は、地下4階地上29階建て、高さ143mのオフィスビル「歌舞伎座タワー」との複合施設「GINZA KABUKIZA」として完成。歌舞伎座と重ならない部分だけガラス張りにし、昭和通り側はオフィスタワーとしての顔をもたせている。座席数は1,808席(幕見席96席を除く)、どの席からも花道が見られ、また舞台寸法は第四期と全く変わらないものの新たに大ゼリを追加、劇場内にもエスカレーターやエレベーターが設置された。 タワーの5階には、歌舞伎をテーマにした文化施設「歌舞伎座ギャラリー」が設けられ、劇場の上にあたる部分には、屋上庭園がつくられた。
 このように400年の長い歴史の中で、歌舞伎にも人気の浮沈はあったが、歌舞伎を成り立たせている、芝居、踊り、音楽の3要素で楽しませることを追求し、一つの総合芸術に磨き上げてきた。
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みどころ

歌舞伎座や歌舞伎役者が醸し出すきらびやかさのなかで、役者のセリフと仕草に留意する。セリフが聞き取れないときでも、役者の仕草、形に、さらに歌舞伎独特の男による女形、そこから発せられる色気にも傾注する。歌舞伎の演目は、芝居である歌舞伎狂言と歌舞伎舞踊に分けられる。歌舞伎狂言は、その内容により時代物と世話物に大別される。
 絢爛な衣装とくまどり模様の派手な化粧の役者が繰り広げる大胆なパフォーマンス。 ほかに男性が女性の役を演じる「女方(おんながた)」や、六方(ろっぽ)や見得(みえ)といった独特な動き、大掛かりな仕掛けがある専用の舞台などに注目する。
 3階には食事処があるが、場合によっては、幕間の時間をみて地下2階で、弁当を頼むのもよい。お土産と歌舞伎グッズは1階と地下2階で購入できる。
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補足情報

*1661(寛永元)年のちの新富座の守田座が開場しているのをはじめ、正徳年間(1711~16)のころには絵島・生島事件で知られる山村座があった。
*「松竹」とは、歌舞伎を継承した双子の兄弟の、兄 白井松次郎(養子にいく)と弟 大谷竹次郎の名前の頭文字をとった。
関連リンク 株式会社歌舞伎座(WEBサイト)
参考文献 株式会社歌舞伎座(WEBサイト)
「歌舞伎座の一世紀」 岡崎哲也 観光文化170号
「明治大正図誌2 東京(二)」歌舞伎座と帝劇 筑摩書房

2025年06月現在

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