築地本願寺
東京メトロ築地駅を出てすぐ、新大橋通りと晴海通りの交差点近くで、新大橋通りに面する。1617(元和3)年に本願寺12世准如(じゅんにょ)*1が浅草横山町に浅草御堂を創建したのが始まりと伝わる。1657(明暦3)年の明暦の大火後、現在地に移った。宗派は京都の西本願寺を本山とする浄土真宗。『江戸名所図会』には、当時の伽藍や境内が描かれており、この伽藍は同じ宗門の佃島漁民が土地を造成して1680(延宝8)年に完工したもので、58宇もの塔頭が建ち並んでいたと記されている。当寺は築地御坊と呼ばれ、寺内町を形成していた。
現在の伽藍は関東大震災後の1934(昭和9)年、伊東忠太*2の設計による再建。間口約87m、奥行約56m、高さ約33m、総面積6,500m2、古代中印度仏教様式と近代風を調和させた石造の豪華な建物である。本堂には約800の椅子席があり、パイプオルガン*3も設置され、斎場、結婚式場などにも利用されている。境内に九条武子歌碑*4、画僧酒井抱一(ほういつ)*5の墓、赤穂浪士間新六(はざましんろく)*6の供養塔などがある。また、インフォメーションセンター棟内には、カフェやオフィシャルショップ、お寺の婚活、第一伝道会館には日本料理店やティーラウンジがあり、誰でも気軽に利用することができる。
現在の伽藍は関東大震災後の1934(昭和9)年、伊東忠太*2の設計による再建。間口約87m、奥行約56m、高さ約33m、総面積6,500m2、古代中印度仏教様式と近代風を調和させた石造の豪華な建物である。本堂には約800の椅子席があり、パイプオルガン*3も設置され、斎場、結婚式場などにも利用されている。境内に九条武子歌碑*4、画僧酒井抱一(ほういつ)*5の墓、赤穂浪士間新六(はざましんろく)*6の供養塔などがある。また、インフォメーションセンター棟内には、カフェやオフィシャルショップ、お寺の婚活、第一伝道会館には日本料理店やティーラウンジがあり、誰でも気軽に利用することができる。

みどころ
正門から入ると、開放感ある境内の先に、日本のお寺とは思えないインド情緒満載の本堂がどっしり構え、丸みを帯びた屋根などが柔和な感じを与えている。左右には伝道会館などが並び、左手にはガラス張りのおしゃれなインフォメーションセンターが建っている。本堂の階段下には左右に有翼の獅子の像が凛々しく坐っている。本堂には各所に動物の像が配されているので、探してみるのも面白い。本堂の内部は天井が高く、広々とした劇場のような空間になっており、丸型の簡素なシャンデリアもポイントとなっている。正面の内陣には阿弥陀如来、向かって右側に親鸞聖人御影、左側は勝如上人御影、左余間(向かって右)には聖徳太子像などが鎮座または掲げられており、内陣は寺院の本堂の最も聖なる空間であり、厳かさが際立っている。
参拝の後はインフォメーションセンターに立ち寄ることをお勧めする。築地場外市場の名店の食材などを取り入れた朝食やスイーツを境内や本堂を眺めながら楽しむこともでき、また、本堂向かって左側1階の「聞法ホール」では、僧侶による仏教の教えに関する法話も毎週(木~日曜日)に開かれ、自由に聴聞することもできる。
当寺門前の新大橋通りを南西へ300mほど行くと、築地場外市場があり、水産品をはじめ多くの食材店と食事処が所狭しと並んでいるので、参詣のあとは立ち寄ってみたい。
参拝の後はインフォメーションセンターに立ち寄ることをお勧めする。築地場外市場の名店の食材などを取り入れた朝食やスイーツを境内や本堂を眺めながら楽しむこともでき、また、本堂向かって左側1階の「聞法ホール」では、僧侶による仏教の教えに関する法話も毎週(木~日曜日)に開かれ、自由に聴聞することもできる。
当寺門前の新大橋通りを南西へ300mほど行くと、築地場外市場があり、水産品をはじめ多くの食材店と食事処が所狭しと並んでいるので、参詣のあとは立ち寄ってみたい。

補足情報
*1 准如(じゅんにょ):1577(天正5)~1630(寛永7)年 浄土真宗本願寺派12代宗主。1602(慶長7)年、長兄の教如(本願寺第11世)が徳川家康の命によって建てられた東本願寺に入ったため、東西両派が分立することになった。
*2 伊東忠太:1867(慶応3)~1954(昭和29)年 日本、東洋の古建築の研究で知られる建築学者。平安神宮、明治神宮などを手がけた。文化勲章を受章。
*3 パイプオルガン: 1970(昭和45)念に仏教伝道協会から寄贈されたもので、堂内での結婚式、演奏会などに活用されており、毎月「築地本願寺パイプオルガンコンサート」も開催している(無料)。2025年2月から建替え工事中。工事期間中も代理のオルガンにて、ランチタイムコンサートを開催。2025年11月頃に新たなパイプオルガンをお披露目予定。
*4 九条武子:1887(明治20)~1928(昭和3)年 女子教育家、歌人、社会事業家。京都西本願寺法主の次女で、九条家に嫁す。現在の京都女子大学の創設に尽力、仏教婦人会連合本部長を務め、関東大震災の救護活動などを行った。
*5 酒井抱一:1761(宝暦11)~1828(文政11)年 江戸時代の画家。姫路城主酒井忠恭(ただずみ)の第2子。名は忠因(ただなお)、抱一は号。琳派を世に紹介した功績は大きい。37歳のとき病身を理由に出家、本願寺の文如上人の弟子となり権大僧都に任ぜられたが、まもなく江戸浅草に閑居、風流三昧の日を送った。
*6 間新六(はざましんろく):赤穂浪士のひとり。預けられていた毛利家で切腹後、親族に引き取られ、築地本願寺に埋葬された。その後遺髪のみを分骨し、泉岳寺に他の浪士と共に墓所が設けられた。
*2 伊東忠太:1867(慶応3)~1954(昭和29)年 日本、東洋の古建築の研究で知られる建築学者。平安神宮、明治神宮などを手がけた。文化勲章を受章。
*3 パイプオルガン: 1970(昭和45)念に仏教伝道協会から寄贈されたもので、堂内での結婚式、演奏会などに活用されており、毎月「築地本願寺パイプオルガンコンサート」も開催している(無料)。2025年2月から建替え工事中。工事期間中も代理のオルガンにて、ランチタイムコンサートを開催。2025年11月頃に新たなパイプオルガンをお披露目予定。
*4 九条武子:1887(明治20)~1928(昭和3)年 女子教育家、歌人、社会事業家。京都西本願寺法主の次女で、九条家に嫁す。現在の京都女子大学の創設に尽力、仏教婦人会連合本部長を務め、関東大震災の救護活動などを行った。
*5 酒井抱一:1761(宝暦11)~1828(文政11)年 江戸時代の画家。姫路城主酒井忠恭(ただずみ)の第2子。名は忠因(ただなお)、抱一は号。琳派を世に紹介した功績は大きい。37歳のとき病身を理由に出家、本願寺の文如上人の弟子となり権大僧都に任ぜられたが、まもなく江戸浅草に閑居、風流三昧の日を送った。
*6 間新六(はざましんろく):赤穂浪士のひとり。預けられていた毛利家で切腹後、親族に引き取られ、築地本願寺に埋葬された。その後遺髪のみを分骨し、泉岳寺に他の浪士と共に墓所が設けられた。
関連リンク | 築地本願寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
築地本願寺(WEBサイト) 「精選版 日本国語大辞典」 「准如」「伊東忠太」 「江戸名所図会 7巻 [2]」松濤軒斎藤長秋 著 天保5~7 (1834~1836)年 41/49 国立国会図書館デジタルコレクション 「朝日日本歴史人物事典」 朝日新聞出版 九条武子 築地本願寺パンフレット |
2025年06月現在
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