寛永寺
上野恩賜公園(通称・上野公園)の北端、東京芸術大学の裏にある。天台宗の関東総本山で、江戸時代は118万8,000m2の広大な寺域と、5代将軍綱吉の建立による根本中堂を中心に、子院36坊をもつ大寺であった。
1625(寛永2)年に天海*1が徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に創建したもので、京都の比叡山にならって東叡山と号した。1647(正保4)年、後水尾天皇の第三皇子守澄法親王が座主となり、以来明治維新まで代々、座主となった法親王が輪王寺宮と称して天台宗を管領し、比叡・東叡・日光の三山を統轄した。
江戸幕府の保護のもと寛永寺は隆盛を極め、徳川御三家をはじめ諸大名によって造営寄進された七堂伽藍を有していたが、1868(慶応4)年の戊辰戦争の兵火で根本中堂をはじめ多くの堂宇を失った。現在の根本中堂は1879(明治12)年に川越喜多院の本地堂を移したもので、旧根本中堂にあった「瑠璃殿」の勅額がかかる。本堂裏の書院には徳川慶喜が蟄居(ちっきょ)した「葵の間」がある。往時の寛永寺の面影を遺すものとしては、清水観音堂*2・上野大仏*3・五重塔*4・開山堂・旧本坊表門・徳川家霊廟の勅額門(厳有院《4代将軍家綱》・常憲院《5代将軍綱吉》)、不忍池弁天堂*5などが上野公園内及び周辺に散在している。
根本中堂には、JR上野駅から上野公園内を通って1.2kmほど、JR鶯谷駅北口からは陸橋を渡り約600m。清水観音堂は上野駅から300m、公園の西側の高台にあり、五重塔は上野動物園園内にある。開山堂・旧本坊表門は、上野公園東側に隣接し、勅額門はその先の寛永寺霊園内にある。不忍池弁天堂は上野駅から西へ300mの不忍池(蓮池)の中の島にある。
1625(寛永2)年に天海*1が徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に創建したもので、京都の比叡山にならって東叡山と号した。1647(正保4)年、後水尾天皇の第三皇子守澄法親王が座主となり、以来明治維新まで代々、座主となった法親王が輪王寺宮と称して天台宗を管領し、比叡・東叡・日光の三山を統轄した。
江戸幕府の保護のもと寛永寺は隆盛を極め、徳川御三家をはじめ諸大名によって造営寄進された七堂伽藍を有していたが、1868(慶応4)年の戊辰戦争の兵火で根本中堂をはじめ多くの堂宇を失った。現在の根本中堂は1879(明治12)年に川越喜多院の本地堂を移したもので、旧根本中堂にあった「瑠璃殿」の勅額がかかる。本堂裏の書院には徳川慶喜が蟄居(ちっきょ)した「葵の間」がある。往時の寛永寺の面影を遺すものとしては、清水観音堂*2・上野大仏*3・五重塔*4・開山堂・旧本坊表門・徳川家霊廟の勅額門(厳有院《4代将軍家綱》・常憲院《5代将軍綱吉》)、不忍池弁天堂*5などが上野公園内及び周辺に散在している。
根本中堂には、JR上野駅から上野公園内を通って1.2kmほど、JR鶯谷駅北口からは陸橋を渡り約600m。清水観音堂は上野駅から300m、公園の西側の高台にあり、五重塔は上野動物園園内にある。開山堂・旧本坊表門は、上野公園東側に隣接し、勅額門はその先の寛永寺霊園内にある。不忍池弁天堂は上野駅から西へ300mの不忍池(蓮池)の中の島にある。

みどころ
かつては、上野公園全体が東叡山寛永寺の山内であった。江戸後期の地誌「江戸名所図会」では、「江戸第一の櫻花の名勝にして、一山花にあらずと云ふ所なし。いにしへ台命(将軍の命令)によりて、和州吉野山の地勢を摸(うつ)し植ゑさせらるゝが故に速あり遲ありて、山上山下盛りをわかてり。彌生の花盛には、都鄙の老若貴となく賤となく、日毎に袖を連ねてこゝに群遊」したという。広い境内に江戸の人々が集まり親しんでいたのが分かる。しかし、幕末の戊辰戦争により、当寺は多くの堂宇が焼失し、根本中堂などは再建(喜多院からの移築)されたものの、現在は公園内にいくつかの遺構、史跡があるのみである。
みどころとしては、公園で比較的行きやすく、かつての風情が残る清水堂や不忍池弁天堂であろう。清水堂は、確かに京都の清水寺の写しらしい雰囲気で、不忍池を望み、それなりに見晴らしも良く、江戸時代には浮世絵になった景勝地。不忍池弁天堂は、中の島にあるだけに、開放感があふれ、振り返れば、上野の山や緑が美しい。サクラの時期には、池に映え、さらに見事である。五重塔は、動物園の中なので、東照宮側から仰ぎ見るか、パンダ見物のついでに立ち寄るのも良いだろう。なお、勅額門については、厳有院の門は上野公園側の道路から見ることはできるが、常憲院の門の見学については、寛永寺の開門時間内であれば見学できる。
みどころとしては、公園で比較的行きやすく、かつての風情が残る清水堂や不忍池弁天堂であろう。清水堂は、確かに京都の清水寺の写しらしい雰囲気で、不忍池を望み、それなりに見晴らしも良く、江戸時代には浮世絵になった景勝地。不忍池弁天堂は、中の島にあるだけに、開放感があふれ、振り返れば、上野の山や緑が美しい。サクラの時期には、池に映え、さらに見事である。五重塔は、動物園の中なので、東照宮側から仰ぎ見るか、パンダ見物のついでに立ち寄るのも良いだろう。なお、勅額門については、厳有院の門は上野公園側の道路から見ることはできるが、常憲院の門の見学については、寛永寺の開門時間内であれば見学できる。

補足情報
*1 天海:1536(天文5)~1643(寛永20)年。天台宗の僧。号は南光坊。勅諡号慈眼大師。出身地は会津高田。1589(天正17)年徳川家康に謁して帰依を受け、江戸開府にあたり、風水などの思想を取り入れ、幕政にも多大の影響を有した。また、家康を神格化するにあたり神号を「東照大権現」とすることを主導した。家康の死後は秀忠を補佐、家光の信任を得た。日光山を再興、東叡山寛永寺開山。
*2 清水観音堂:1631(寛永8)年造営。不忍池に臨む高台にある。桁行五間、梁間四間、一重、入母屋造、本瓦葺。「江戸名所図会」には清水観音堂として「京師清水寺に比して、舞臺(台)造りなり。此邊(辺)殊更に櫻多し」と記しており、清水寺の風情を取り入れようとしたことがわかる。広重の浮世絵「上野清水堂不忍ノ池」でも知られる。本尊は千手観音像。
*3 上野大仏:清水堂の北の木立のなかにある。1631(寛永8)年に造立されたが、再三罹災し、その都度再建復興された。江戸後期の「江戸名所図会」では「紫銅をもつて二丈二尺餘(約6.6m)に作れる」としている。しかし関東大震災によりお首が落ち、第二次大戦時中、金属の供出令により胴体は徴用された。現在は顔のみが遺されるが、レリーフのようにして安置し拝観できるようになっている。
*4 五重塔:1631(寛永8)年土井利勝により上野東照宮の一部として建立されたもの。現在のものは1639(寛永16)年の再建。明治の神仏分離の際に、東照宮五重塔から寛永寺五重塔と名前を変更し、保全した。1958(昭和33)年に東京都に寄託された。五層のみ銅瓦葺で他は本瓦葺。高さは地上から先端の宝珠まで36m。上野動物園内にある。
*5 不忍池弁天堂:寛永寺の開基天海が琵琶湖の竹生島になぞらえて、寛永年間(1624~1644年)に不忍池に中の島を築いて建立した。第二次世界大戦の空襲により焼失、現在の社殿は1958(昭和33)年に再建されたもの。本尊の八臂大辯才天は、竹生島の宝厳寺から勧請したもの。なお、常陸下館藩2代藩主水谷勝隆の寄進という説もある。
*2 清水観音堂:1631(寛永8)年造営。不忍池に臨む高台にある。桁行五間、梁間四間、一重、入母屋造、本瓦葺。「江戸名所図会」には清水観音堂として「京師清水寺に比して、舞臺(台)造りなり。此邊(辺)殊更に櫻多し」と記しており、清水寺の風情を取り入れようとしたことがわかる。広重の浮世絵「上野清水堂不忍ノ池」でも知られる。本尊は千手観音像。
*3 上野大仏:清水堂の北の木立のなかにある。1631(寛永8)年に造立されたが、再三罹災し、その都度再建復興された。江戸後期の「江戸名所図会」では「紫銅をもつて二丈二尺餘(約6.6m)に作れる」としている。しかし関東大震災によりお首が落ち、第二次大戦時中、金属の供出令により胴体は徴用された。現在は顔のみが遺されるが、レリーフのようにして安置し拝観できるようになっている。
*4 五重塔:1631(寛永8)年土井利勝により上野東照宮の一部として建立されたもの。現在のものは1639(寛永16)年の再建。明治の神仏分離の際に、東照宮五重塔から寛永寺五重塔と名前を変更し、保全した。1958(昭和33)年に東京都に寄託された。五層のみ銅瓦葺で他は本瓦葺。高さは地上から先端の宝珠まで36m。上野動物園内にある。
*5 不忍池弁天堂:寛永寺の開基天海が琵琶湖の竹生島になぞらえて、寛永年間(1624~1644年)に不忍池に中の島を築いて建立した。第二次世界大戦の空襲により焼失、現在の社殿は1958(昭和33)年に再建されたもの。本尊の八臂大辯才天は、竹生島の宝厳寺から勧請したもの。なお、常陸下館藩2代藩主水谷勝隆の寄進という説もある。
2025年06月現在
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