東京駅
東京の表玄関。ホーム数30本(地下鉄含む)、JR東日本とJR東海の列車・電車の発着数は1日約4,000本。ホーム数、発着数ともに日本一を誇る巨大ターミナル駅である。東京駅を基準に路線の上り・下りが決められている。丸の内側の駅舎は、1908(明治41)年から6年を費やして1914(大正3)年に完成した鉄骨、レンガおよび石造のルネッサンス様式の建物*で、辰野金吾*の設計。建築工事は指名入札で大林組が落札した。南北335mの長大な駅舎で、3階建て、高さ約35mの南北2つのドームを備える。表面のレンガは一般的なレンガでなく、化粧レンガ*で、同じ大きさのレンガを互い違いに並べたものだが、均質な色合いと寸法にこだわり抜いたため、美しい表面に仕上がっている。完成から9年目、関東大震災に見舞われたが、多くのレンガ造建築が被害にあうなか、東京駅はビクともせず、施行の確かさが立証された。後年、空襲による火災で屋根などが焼失したため、1947(昭和22)年に、3階建ての駅舎を2階建てとして復興した。
出入口は丸の内と八重洲*口の両方にそれぞれ北口、中央口、南口があり、北口には両側を結ぶ通り抜け通路が通じている。また、日本の鉄道開業100年を記念して1972(昭和47)年につくられた巨大な地下空間は地下5階までの地下駅となっており、総武本線(快速線)と横須賀線が乗り入れている。丸の内側中央には皇室専用の出入口も設けられている。これまで東京の北の玄関口は上野駅だったが、1991(平成3)年に、東北・上越の両新幹線が東京駅乗り入れとなり、その後、常磐線、東北線、高崎線の電車も東京駅に乗り入れことになったため、東京駅は文字通り、東京の表玄関となったのである。
JR東日本は、東京駅を「Tokyo Station City 」と銘打ち、駅舎やエキナカ*、出入口周辺も含め、歴史と伝統、文化、学術、ビジネス、先進性が融合した「世界で唯一の駅」を目指す構想に着手。その一環として、丸ノ内側の駅舎を歴史を象徴する顔にすべく、2007(平成19)年から2012(平成24)年にかけて、3階部分と屋根、高さ約35mの南北2つのドームが創建当時の姿に復原された。ドーム内はドーム天井や8角コーナーなどに残存していたパーツをもとに復元し、レリーフや彫刻などが彩る美しく優雅な空間となった。これを機会に東京ステーションホテル*もリニューアルされている。
出入口は丸の内と八重洲*口の両方にそれぞれ北口、中央口、南口があり、北口には両側を結ぶ通り抜け通路が通じている。また、日本の鉄道開業100年を記念して1972(昭和47)年につくられた巨大な地下空間は地下5階までの地下駅となっており、総武本線(快速線)と横須賀線が乗り入れている。丸の内側中央には皇室専用の出入口も設けられている。これまで東京の北の玄関口は上野駅だったが、1991(平成3)年に、東北・上越の両新幹線が東京駅乗り入れとなり、その後、常磐線、東北線、高崎線の電車も東京駅に乗り入れことになったため、東京駅は文字通り、東京の表玄関となったのである。
JR東日本は、東京駅を「Tokyo Station City 」と銘打ち、駅舎やエキナカ*、出入口周辺も含め、歴史と伝統、文化、学術、ビジネス、先進性が融合した「世界で唯一の駅」を目指す構想に着手。その一環として、丸ノ内側の駅舎を歴史を象徴する顔にすべく、2007(平成19)年から2012(平成24)年にかけて、3階部分と屋根、高さ約35mの南北2つのドームが創建当時の姿に復原された。ドーム内はドーム天井や8角コーナーなどに残存していたパーツをもとに復元し、レリーフや彫刻などが彩る美しく優雅な空間となった。これを機会に東京ステーションホテル*もリニューアルされている。

みどころ
駅の建物の美しさはもちろん、周辺のビルから、東京駅をひんぱんに発着する電車を眺めるのも一興である。東京駅丸の内中央口から皇居前内堀通りを結ぶ行幸通りも合わせて訪れたい。

補足情報
*ルネッサンス様式の建物:東京駅は、アムステルダム中央駅の模倣と言われていたが、近年模倣ではないということが確認されている(赤桐毅一)。
*辰野金吾:1854~1919 明治・大正の建築家。工部大学校造家学科(東大建築学科の前身)で、ジョサイア・コンドル*の教えを受けた第一期生。東京帝国大学工科大学教授。主になる設計は200にもおよび、代表作に東京駅、日本銀行などがある。仏文学者辰野隆の父。
*ジョサイア・コンドル:1852~1920 イギリスの建築界のソーン賞を受賞した後、日本政府に招かれて来日、24歳で工部大学校(後の東京大学)の教授に就任。教鞭をとるかたわら、政府の依頼で鹿鳴館や三菱一号館などを手がける。
*化粧レンガ:製造は、白色が品川白煉瓦株式会社、赤色が鳥居陶器製造所、躯体の煉瓦は、深谷の日本煉瓦製造会社である。
*八重洲:オランダ人通訳ヤン・ヨーステン(和名・耶楊子《やようす》)が内堀沿いに邸地を拝領したことから、このあたり一帯はヨーステンの和名を転じて 「八代洲河岸(やよすがし)」と呼ばれた。 「八代洲」は、のちに「八重洲」と書かれ、初めて町名になったのは1872(明治5)年、現在の丸の内一丁目付近であったが、丸の内の開発と東京駅ができてから、東京駅の東口、いまの八重洲になった。
*エキナカ:東京駅の1階と地下1階には商業施設グランスタがある。レストラン、カフェ、スイーツ、駅弁、雑貨店など、食事や買い物が楽しめる店舗が揃い、多くの人に利用されている。
*東京ステーションホテル:東京駅丸ノ内駅舎の2~3階の南半分に、東京駅の開業1年後の1915(大正4)年に誕生した。空襲で建物に影響はあったが、営業は続け、復旧工事を終えたのが1951(昭和26)年。メインダイニングの「ばら」(現在はブランルージュ)のフランス料理とメインバー「カメリア」の評判が高かった。戦後60年以上、2階建ての仮の姿だったが、2003(平成15)年に東京駅の丸の内駅舎が国の需要文化財に指定されたことを受け、創建時から残る部分は最大限に保存したうえで、地下2階から地上4階に改築され、客室は約2.5倍になった。
*辰野金吾:1854~1919 明治・大正の建築家。工部大学校造家学科(東大建築学科の前身)で、ジョサイア・コンドル*の教えを受けた第一期生。東京帝国大学工科大学教授。主になる設計は200にもおよび、代表作に東京駅、日本銀行などがある。仏文学者辰野隆の父。
*ジョサイア・コンドル:1852~1920 イギリスの建築界のソーン賞を受賞した後、日本政府に招かれて来日、24歳で工部大学校(後の東京大学)の教授に就任。教鞭をとるかたわら、政府の依頼で鹿鳴館や三菱一号館などを手がける。
*化粧レンガ:製造は、白色が品川白煉瓦株式会社、赤色が鳥居陶器製造所、躯体の煉瓦は、深谷の日本煉瓦製造会社である。
*八重洲:オランダ人通訳ヤン・ヨーステン(和名・耶楊子《やようす》)が内堀沿いに邸地を拝領したことから、このあたり一帯はヨーステンの和名を転じて 「八代洲河岸(やよすがし)」と呼ばれた。 「八代洲」は、のちに「八重洲」と書かれ、初めて町名になったのは1872(明治5)年、現在の丸の内一丁目付近であったが、丸の内の開発と東京駅ができてから、東京駅の東口、いまの八重洲になった。
*エキナカ:東京駅の1階と地下1階には商業施設グランスタがある。レストラン、カフェ、スイーツ、駅弁、雑貨店など、食事や買い物が楽しめる店舗が揃い、多くの人に利用されている。
*東京ステーションホテル:東京駅丸ノ内駅舎の2~3階の南半分に、東京駅の開業1年後の1915(大正4)年に誕生した。空襲で建物に影響はあったが、営業は続け、復旧工事を終えたのが1951(昭和26)年。メインダイニングの「ばら」(現在はブランルージュ)のフランス料理とメインバー「カメリア」の評判が高かった。戦後60年以上、2階建ての仮の姿だったが、2003(平成15)年に東京駅の丸の内駅舎が国の需要文化財に指定されたことを受け、創建時から残る部分は最大限に保存したうえで、地下2階から地上4階に改築され、客室は約2.5倍になった。
関連リンク | 一般社団法人東京ステーションシティ運営協議会(WEBサイト) |
---|---|
参考文献 |
一般社団法人東京ステーションシティ運営協議会(WEBサイト) 「東京をつくった話」東建記念誌編纂委員会 日本経済評論社 「東京駅と周辺」赤桐毅一 地理(古今書院)53-7、2008.Jul. |
2025年06月現在
※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。