相馬野馬追そうまのまおい

「相馬流れ山、習いたかござれ。五月中申(なかのさる)、アノサお野馬追」と民謡「相馬流れ山」にうたわれる相馬地方最大の相馬野馬追は、現在は7月の最終土、日、月曜日に行われる。
 起源は平将門*が野馬を狩って妙見宮に献じていたという故事によるといわれ、将門の末裔と伝えられる相馬氏が、1323(元亨3)年に、すでに源頼朝から所領として与えられていた奥州行方郡(現在の南相馬市)に本拠地を構えたことにより野馬追行事がこの地に引き継がれたという。その後、相馬氏は徳川幕府に所領が安堵され、居城を相馬中村城(現相馬市)に移し、野馬追についても神事として徳川幕府から公認された。明治初期には一旦消滅したが、相馬三妙見*(太田、小高、中村)のひとつである太田神社(南相馬市原町区)が中心となり再興が図られ、1878(明治11)年から、三社合同の野馬追が行われるようになり、 これが現在の相馬野馬追の原型となっている。  
相馬野馬追の祭りの流れは、
 1日目(土曜日)は、午前中、「出陣式」が総大将のいる相馬中村神社をはじめ、太田、小高の各神社で行われる。祭場地がある雲雀ヶ原(南相馬市原町区)に向け、各神社、各郷から三社の神輿に供奉して集結する。午後は雲雀ケ原で陣羽織、野袴姿の騎馬武者による「宵乗(よいのり)競馬」が一周1,000mの馬場で行われる。
 2日目(日曜日)は午前中、相馬太田神社から3kmほど先の雲雀ケ原に向けて400騎余りの「お行列」がある。午後は、まず、旗差物をなびかせながら風を切って疾走する「甲冑競馬」が行われ、その後、最大の呼びものである「神旗争奪戦」が行われる。花火で打ち上げられた神旗が舞い降りるところを騎馬武者たちが争奪し、勝者は三神社の神輿が仮鎮座する御本陣山へかけ上り、賞を受ける。31本の神旗が打ち上げられ、騎馬武者たちの神旗争奪が繰り返される。
 3日目(月曜日)は相馬小高神社で「野馬懸」が行われる。十数騎の武者が広場に裸馬を追い込み、白衣のお小人が素手で捕えて神に献ずるという野馬追の原形を残す行事である。「野馬懸」とも呼ばれるこの行事を最後に馬を主役にした三日間が終わる。
なお、2日目の甲冑競馬、神旗争奪戦の観覧は有料。
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みどころ

出陣の様子を見るには、総大将が率いる騎馬武者の列がお勧めで、相馬市の中村城旧大手門から市役所前がよい。「騎馬武者行列」は全員が太刀、甲冑をまとい、旗指物をなびかせながらの行進で、まさに威風堂々の時代絵巻である。雲雀ヶ原で行われる「甲冑競馬」は旗指物を背負い人馬一体となって走り抜ける騎馬武者たちの姿が華やかで迫力満点だ。
 祭りがクライマックスに達する「神旗争奪戦」では、騎馬武者が人馬渾然となって神旗が舞い降りる場所に目がけて一斉に走り込み、華やかな甲冑や武具、旗指物が乱舞し、観客を興奮の渦に巻き込む。神旗を獲得した武者が本陣屋に向かう姿も凛々しく、馬までも誇らしげにみえる。
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補足情報

*平将門:?~940(?~天慶3)年 平安初期の武将で相馬小次郎と称した。下総国(千葉県北部から茨城県の一部)を本拠地として勢力を拡大し、一時は常陸(茨城県)、下野(栃木県)まで支配下としたが、朝廷からの征討も出され、平貞盛・藤原秀郷の連合軍に敗れ、討死した。
*相馬三妙見:妙見宮は北極星を神格化した妙見菩薩を祀る。平将門や相馬氏と縁戚関係にあったといわれる関東の有力豪族千葉一族が軍神として崇敬しており、相馬氏もその影響があったといわれている。相馬氏は三度居城(太田、小高、中村)を変えたが、どの城にも妙見宮を勧請した。それが現在の相馬太田神社、相馬小高神社、相馬中村神社で、相馬三妙見と呼ばれている。
関連リンク 相馬野馬追(相馬野馬追執行委員会)(WEBサイト)
参考文献 相馬野馬追(相馬野馬追執行委員会)(WEBサイト)
相馬市(WEBサイト)
南相馬市観光情報サイト(南相馬市)(WEBサイト)
『ふくしまの古寺社紀行』植田 龍  歴史春秋社
千葉市(WEBサイト)

2023年07月現在

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