五稜郭ごりょうかく

五稜郭は、函館山から約6km離れた函館市のほぼ中央にある。1857(安政4)年、蘭学者武田斐三郎*の設計により蝦夷地防備と近代兵器の発達に対処するため、8年の歳月をかけて竣工したわが国最初の洋式城郭で、塁形が五つ星の形をしているところから五稜郭と呼ばれているが、建設当時には亀田役所土塁とも言われていたという。
 外堀の幅30m、総面積約25万m2、旧来の和式築城とは異なった堅塁であった。1868(明治元)年、箱館戦争*の舞台となり、翌1869(明治2)年に官軍の総攻撃を受けた榎本武揚*らがついに開城したという歴史を秘めている。
 現在、公園として利用されており、入口付近には五稜郭タワー*があり、また公園内には2010(平成22)年に復元された箱館奉行所*がある。
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みどころ

我が国初の洋式星形城郭であり、当時の姿が復元保存されていて貴重である。公園としても利用されており、市民の憩いの場にもなっている。 箱館奉行所、五稜郭タワーなどには歴史を物語る展示物があり、歴史を理解してゆっくり味わいたい。
 外堀に沿って桜が1,600本植えられており、4月上旬から5月上旬の満開時期には、その星型の形状がくっきり映しだされ、外堀の水面とのコントラストも見事である。
 土方歳三*の終焉の地としてのシンボルであり、ロマンを感じさせる。司馬遼太郎の「燃えよ剣」は新選組副長の土方歳三の生涯を描いた小説であるが、箱館戦争までの歴史が詳しい。読んだあとに訪れるとより感慨深い。
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補足情報

*武田斐三郎(たけだあやさぶろう):諸術調所教授方。西洋の築城法をもとに五稜郭の設計を行った。
*箱館戦争:1868(明治元)年旧幕府艦隊8隻を率いて江戸を脱出した榎本武揚らは、五稜郭に本営を置いて新政府に抵抗した。しかし翌年、黒田清隆の総攻撃の前についに降伏。1867(慶応3)年に始まる明治維新の国内戦争もここに終りを告げた。箱館から函館になったのは1869(明治2)年9月になったと言われている。
*榎本武揚(えのもとたけあき):江戸幕府直轄の海軍教育機関で蘭学や航海術を学び、5年間オランダに留学。幕府海軍副総裁となる。旧幕府軍を率いて「蝦夷共和国」樹立を目指し、五稜郭に立てこもったが降伏。東京の牢獄に2年半投獄されたが釈放され、その後明治政府で要職を歴任した。
*五稜郭タワー:美しい五角の星形幾何学模様を描く五稜郭を眼下に、函館山や市街地を一望のもとにする高さ90mの展望塔。1階は床の一部がガラス張りの展望室、2階には五稜郭歴史回廊がある。午前中は真下に見える五稜郭が逆光になるので、午後に訪れるのが良い。
*箱館奉行所:1864(文久4・元治元)年に五稜郭内に造られ、徳川幕府の北辺警備や対外応接などを担っていた。完成から7年後の1871(明治4)年に解体されたが、当時の写真や図面などにより復元された。
*土方歳三(ひじかたとしぞう):近藤勇(新選組局長)とともに新選組を結成し、新選組副長。江戸幕府に忠誠を誓い幕末の京都の治安取締り、大政奉還後の戊辰戦争で活躍し、箱館戦争では五稜郭から出陣し激戦を繰り広げるも一本木関門の防衛戦で戦死、享年35歳。
関連リンク 函館市(WEBサイト)
参考文献 函館市(WEBサイト)
五稜郭タワー(WEBサイト)
『北海道の歴史散歩』北海道高等学校日本史教育研究会 山川出版社
『るるぶ函館 五稜郭’21』JTBパブリッシング

2023年12月現在

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